【要約・考察】『ディスタンクシオン』嘲笑と冷笑に抗する社会学
※ 本文は岸政彦『ディスタンクシオン(100分de名著)』を参照しています。
誰かの人生を簡単に嗤うなよ。ゴシップで盛り上がる他者の反応を見るにつけ、そう思う。誰もが誰かの選択を嘲笑し、さながら神様のような立ち位置から、その生い立ちを論評する様子に違和感を覚える。「一生懸命に考えた結果だ」「頭が良かろうが悪かろうが、その人はその人の最善を尽くしたのだ」という言葉が喉元までせりあがる。そんな経験がある人には『ディスタンクシオン』という本の存在を知ってほしい。これは、人の心を守るための知のあり方の本だからだ。本論では、フランスの社会学者・ブルデューの主著『ディスタンクシオン』の鍵概念の説明を行う。参考にしているのがあくまで入門書なので、およそ完璧とはいえないものだが、それでも知ってもらいたいのだ。どういう概念が、どのような言葉があれば、人の心を傷つけない知を身に着けることができるのだろう。さっそく見ていこう。
ハビトゥス・界・文化資本
ブルデュー社会学の骨子は「私たちの行為だけでなく、態度や能力、主観的な判断や評価、無意識の感覚や身体所作までも、社会や歴史によって規定され、構築されたもの」という命題だ。このことをわかりやすくいえば、一つの絵画への態度だろう。ある人は、絵画をみても「つまらない」と思うだろうし、別の人は「すばらしい!」と感じる。端的に言ってしまえば、同じ対象に対する態度の違いも、ブルデューには「社会や歴史によって規定され、構築されたもの」となっている。一般的な感覚からすれば、このような感想の違いは、「個性」や「性格」など、個人の「本質的」な部分による違いとみなされるだろう。しかしブルデューは違う。繰り返しになるが、それらの分岐は「社会や歴史によって規定され、構築されたもの」なのだ。
この構築されたものによる心の傾向性をブルデューは「ハビトゥス」と言った。「ブルデューの理論におけるハビトゥスとは、簡単に言うと「傾向性」「性向」です」。そして、この「ハビトゥス」という概念は、私やあなたの想像以上に守備範囲の広い概念だということに注意しておきたい。これは趣味だけではなく、例えば技能を取得する態度や教養、所作にも現れることなのだ。ここではピアノを習う子どもという例を用いて次のように説明している。「つまり子どもがピアノのレッスンを通じて獲得するのは、これから生涯にわたって他の場面や状況でも役に立つような教養や態度なのです」。「その子は「何かを努力して身につける」という過程を体験します。目の前の楽しみを先送りにしてでも、いま努力することで技能を取得する。そういう態度を学ぶわけです」。
この「ハビトゥス」の違いが、将来的にどのような違いを生むかは想像に難くない。身に着ける技量の多さ、質、学歴、組織内での堅実な立ち振る舞いなど。それらの有無によって生涯賃金に著しい差が生まれるのは、誰しもが直観的に察するところだろう。
しかし「ハビトゥス」の違いで何もかもが決定するわけではない。私たちの人生は「ハビトゥス」の違いを、自身の人生で培ってきた大切なものを賭けて乗り越えようとしているのだから。どういうことか。次のような文章がある。「みなさんも映画や音楽の話をしていて、自分が好きな作品やアーティスト「まったく駄目だね」などと言われ、自分でも意外なほどに深く傷ついた経験があるのではないでしょうか。(…)ブルデューは、「芸術をめぐる闘争というのは、必ず同時にひとつの生き方を押し付けようとするものである」と言っています。趣味は、生き方そのものが肯定されるかの闘争である」。そして、この闘争が繰り広げられる場をブルデューは「界」と呼ぶ。「界という闘争モデルのいちばん重要なポイントは、私たちが(広い意味での)利得を追及するという動機を持っているという点です。人びとは界でのポジショニングに実存を賭けているのです」。
この「ハビトゥス」「界」に続き、重要な概念がある。「文化資本」だ。「文化資本とは、圭座資本と対比させることで社会や界の横幅を描くための概念です。ハビトゥスに近いものでもあるのですが、もう少し具体的で、それは文化財、教養、文化実践、あるいはブルデューが言うところの美的性向などを指します」。またこの用語の真に効果的な点は、それが「資本」、つまり「投資され、増殖され、蓄積され」る側面を表すことができることだ。この一見すると救いのない概念には、ブルデュー自身の「怒り」があったと思われる。「ブルデューの仕事全体を丁寧に見ると、彼には階層構造に対する怒りがあることがわかります。なぜこんな理不尽な構造があるのか。どうしてかくも過酷な構造が存続しているのか。自らも庶民階級出身のブルデューの研究の根底には、そのことに対する怒りがあるのです」。たとえ救いのない概念を生み出すことになったとしても、目の前の現実の過酷な現実の構造を白日の下に晒す。ブルデューの怒りはそういうものであったのだと私は思う。
嘲笑と冷笑に抗する社会学
だが、見方によっては決定論とおも捉えることが出来そうなブルデュー的世界観について、社会学者の岸政彦は興味深い指摘をする。「しかし私は、ブルデューの主張は希望のない決定論ではないと考えています。なぜならば、ブルデューの理論はその過酷さを代償に、幻想を持たずに他者を知ること、幻想を持たずに自分を知ることを可能にしてくれるからです」「私たちは、自分たちの人生を、よりよくしようとがんばっています。これは見方を変えれば、私たちの行為や判断は、すくなくともその本人にとっては、「より良くなるはずだ」という見通しのもので選択されているはずだ、ということになります」。
私が本書の紹介をしようと思った理由はここにある。何か事件が起きたとき、私たちは被害者の立場になって物申したくなるものだ。しかし、私は被害者に寄り添うと同じぐらい、加害者にとって被害をもたらした行為が、どういう意味において「合理的」だったのか、について考えなければならないと私は思う。被害者やその周囲の人間が抱える感情は、当然のことながら、当事者たちにしかわからないはずだ。「寄り添う」ことは大いに結構だが、そこにはある種のヒロイスティックの陶酔があるような気がしてならない。どこかで人生の歯車が狂えば、私たちだって「加害者」になりえたかもしれない。そういう可能性に蓋をして、「正義は我にあり」と叫ぶことの傲慢さが、様々な「暴力」の呼び水になっているのではないか。被害者でも、加害者でもない人たちにできることがある。それは誰かの人生を冷笑することでも、嘲笑することもない。他者の「合理性」に目を凝らし、耳を澄ませることだ。ブルデューの『ディスタンクシオン』は、そういうことを訴えているのだと私には思える。