【コラム】井上尚弥は、いかにして“モンスター”となったのか -井上真吾『努力は天才に勝る!』より-

「尚のボクシングは自分が理想とする「打たせずに打つ」攻防一体を目指しています」と語るのは、井上尚弥の父・井上真吾だ。『努力は天才に勝る!』という本には、井上尚弥がどのようにして「モンスター」とまで呼ばれるほど、無類の強さを手に入れたのか、その舞台裏が真吾氏によって記されている。本論では、この舞台裏、言い換えれば、尚弥氏の強さの秘密を『努力は天才に勝る!』から紐解いていきたいと思う。

力ではない強さの秘密

KOを量産しているスタイルからは想像がつかないが、真吾氏は尚弥氏へ防御面を重視した指導を行ったとのことだ。「初めて教えた技術はステップワークでした」と真吾氏はいう。「フットワークで間合いを外す。相手の拳の届かない距離まで下がれば安全です。まずはこれを反復させました」。このことについて本書では、「空間の魔術師」とも呼ばれたWBC世界スーパーフライ級王座を八度防衛した徳山昌守を研究しようとしたともあると語る。結局は徳山昌守だからこそ、なせる技術だったということで断念している。筆者は、このことについては、おそらく徳山のバックボーンに空手があるせいだと思う。これではたしかに、模倣するのは難しい。空手出身の格闘家といえば、総合格闘家・堀口恭司もいるが、彼もまた他の選手と比べ、間合いが遠い。あの独特な間合いを取り入れることは困難を極めるはずだ。とはいえ、何よりもまず「フットワーク」というのが、強さの秘密の一つといえるだろう。
では、その次はいよいよ攻撃面の指導か、と思いきや「フットワークのつぎはブロッキング」と続く。「ステップとガードを複合させて、まずステップで下がる。相手から打たれない距離まで下がればダラッと下ろしても差し支えないので、そこでいったん休む」。「足で距離を外す。ガードで守る。かわす。よける。それらの取得に時間の多くを割きました」。この徹底したディフェンスの指導が「モンスター」の強さの秘密というのは、試合だけではおよそ想像が難しい部分だろう

「弱点を突く」ではなく「長所を潰す」

さらに本書には驚くべきことが書いてある。「相手の長所を封じ込めれば、相手は勝手にパニックに陥り、容易に自分のペースに持ち込むことができます」。考えてみれば、当然のことかもしれないが、多くの人は長所の封じ込めよりも弱点を突く方を考えてしまうのではないだろうか。しかし、このことについて真吾氏は次のように語る。「弱点をついても、相手からすると「やはりそうきたか」となります。弱点についても想定の範囲です」。いうなれば「弱点を突く」ことは、あまり意味がないのだ。だからこそ「長所を潰す」ほうがメリットとしては大きい。この方策については、とある試合での敗北が背景にある。「尚が高校二年生のとき、全日本アマチュア選手権の決勝で敗れたのも同じパターンです。自慢の攻撃を徹底的にブロッキングされて、林田太郎選手に翻弄されたのです」。プロ六戦目で世界王者、二階級四団体統一王者にも糧となる敗北があった。このことで見出した「長所を潰す」という戦術が、今の尚弥氏を形作っているのかもしれない

さいごに

繰り返しになるが、『努力は天才に勝る!』は尚弥氏の父・真吾氏による教育論といえる本だ。技術的なところはもちろんだが、指導者として、父親として意識してきたことが書かれている。
未だかつて、現代ほど「教育」が難しくなった時代はない。子育てはもちろん、仕事においても部下の育成などには、多くの社会人が頭を悩ますところではある。そういった点では、本書は参考になる部分が多くあると私は思う。一方で、やはり「強さの秘密」を紐解けることが、著書の最大の魅力だというのは、改めて言うまでもないだろう。伝説的なチャンピオンの、テレビだけでは見えにくい「強さ」を支えるための秘密をぜひ多くの人に知ってもらいたいと思う。