【解説試論】『何もしない』
--「なにもしない」をするために本当に必要なこと--
何もしない休日を過ごすと罪悪感を抱いてしまう。なんとなく眺めるSNSには、資格勉強に励んだり、「丁寧な暮らし」を思わせる写真がアップロードされている。そういうのを目にすると、何もしない自分がひどく恥ずかしくなるのだ。日々の生活のなかで「何もしない時間を作るぞ」「今日という一日だけは何もしないぞ」と思っても、その選択がそもそも間違いだったような気がしてくる。だがジェニー・オデルの『何もしない』という本は、そのような気分になる必要はないと訴える。そして、そのような気分になるのは、「何もしない」ことが本当は出来ていないからなのだとも。本論では、「何もしない」ということについて改めて考え直し、「何もしない」をするために必要なことを本書から学んでいく。
「何もしない」とはどういうことか
現代社会において何もしない時間を持つことは難しい。私たちは知らず知らずのうちに様々なことに巻き込まれているからだ。仕事や学業はもちろん、将来に備えた貯蓄や自己研鑽、あるいは様々なカルチャーの流行など。洪水のような情報とタスクの濁流を生きるなかで、ふと「すべてを投げ出して、リゾート地にでも行きたい」というような誘惑にかられる。だが本書は、そのような行動も「何もしない」ことにはつながらないと語る。「「何もしない」を実践するには、生産性に支配された香料とした風景から空間的にも時間的にも離れなければならないのなら、一時的であれ、永久であれ、世界に背を向けてしまえばすべては解決するのではないかと結論付けたい誘惑にかられるかもしれない。だが、それではあまりに短絡的だ」ジョニー・オデルは次のように続ける。「デジタルデトックスのためのリトリートなどの企画はたいてい、生産性が上がった状態で仕事に戻るための、ある種の「ライフハック」として商品化されている」。つまり、私たちが考えるような「何もしない」ための行動は、ただの気晴らしにすぎず、いずれまた情報とタスクに埋もれる日々に戻ってしまう。言い換えれば、その日々とは「何もしない」ことに罪悪感を覚えるような生活のことだ。オデルの考えは、このようなサイクル(「何もしない」ために忙しい日々を過ごすというループ)自体を拒否する。商品化された「何もしない」時間は、本当の「何もしない」ではないのだとオデルは語るのだ。ではどうすればいいのか。オデルは「何もしない」ためには「距離をとる」ことが大事だと言う。「「距離を取る」とは、離脱することなしに、自分だったらどうしていたかをつねに意識して、部外者の視点で考える行為だ」。そして「距離を取る」ことの重要さをこのように強調する。「いちばん重要なのは、「距離を取る」ことが、どうしてもそこから出ていきたい(しかも永遠に)というやぶれかぶれの気持ちから、今自分がいる場所で拒絶し続け、拒絶という共有空間のなかで他者と出会う決意へと成熟する節目になるということだ」。何もしない時間を作るためにはいささか抽象的すぎるかもしれない。この実践の例は本論の最後に語ろうと思う。そのため次は、何が私たちの「何もしない」一日の過ごし方を難しくさせているのかを見ていきたい。
SNSから時間を取り戻す!
何が私たちの「何もしない」を難しくしているのか。本書はその要因の一つにSNSを挙げている。私自身の経験だが、SNSで様々なトレンド記事やショート動画をいくつも見て、いつの間にか無くなっている時間に愕然とすることがある。自分の貴重な休日はどこに消えたのかと憂鬱になる。得たのはわずかながらの満足感と大きな憂鬱、そして様々な感情が入り乱れたコメントを見たことによる徒労感。理想の「何もしない」とは大きくことなった現実が現れてくるのである。現代のメディア環境は、注目と感心をハックし、私たちの「何もしない」を許さない。「意思や熟考からではなく、恐怖と不安に由来する反応を促されるまま罪悪感を抱かされ、脅され、自分は間違っているのかもしれないと思い込まされている状況」というのがオデルの認識である。この認識には説得力があると私は思う。SNSにあふれかえる記述には文脈がない。何が、どうなって、そのような状況になったのかというのは削り落とされている。「全体として見ると支離滅裂で、そこから生まれるのは理解ではなく、無味乾燥で知覚が麻痺するような恐怖」を覚えるとオデルは語る。耳目を集めることのみに特化したメディア環境は、遅効性の毒のように私たちの感性を汚染していく。だが、それだけではない。社会運動への関心を向けてもらうためにもSNSは活用されているのは今では誰もが知るところだ。だが、この活用方法について著者はいう。「ソーシャルメディアの即時性は、「政治的な掘り下げ」に必要な時間を駆逐する。アクティビストがネット上でシェアするコンテンツは「キャッチーな」ものである必要があるため、「アクティビストたちが自らの政治的熟慮を知らしめる空間と時間がなくなる」」。私なりに言い換えれば、自らの行動を広めるメディアにおける情報の流通があまりにも早いせいで、その行動について「目立ちたいだけ」などというような、根も葉もない見方も生んでしまう危険性があるということだ。他人の行動に真剣さや誠実さを感じることができるのは、その行動に費やした時間だと私は思う。そのような時間すら、現代のメディア環境は容易に与えてくれないのだ。さて話を戻そう。本節の問題は、何が「私たちの「何もしない」一日」を難しくさせているのかというものだった。その原因の一つを私たちはSNSだと考え、分析を試みたのが本節だ。キャッチーなコンテンツ、文脈のない支離滅裂な反応の羅列に私たちの恐怖と不安、興奮が引き出される。なにかしないといけない気になる。繰り返しになるが、このような状況が私たちの「何もしない」を阻む。では改めて考えてみたいことがある。私たちにとっての「何もしない」とは本当はどういうことなのか。
「何もしないこと」の幸福に必要なこと
本論の冒頭で「何もしない」にとって大事なことは「距離を取る」ことだと述べた。しかし、そのあとに続く「今自分がいる場所で拒絶し続け、拒絶という共有空間のなかで他者と出会う」とはどういうことなのか。手掛かりにしたいのは、『何もしない』の作者によるバードウォッチングの経験だ。「そしてある時点で、「鳥」という大雑把なカテゴリーに注意を向けられなくなっていることに気づいた。私が目を向けるものを決定する関係性がたくさんありすぎたのだ。(…)鳥、木、虫、その他あらゆるものが、物理的にも概念的にもたがいに切り離せなくなった。関係しているとは思いもしなかった、さまざまな生き物どうしのつながりを知る機会があった」だが、これは妙な手がかりだ。「何もしない」ことの手掛かりがなぜ「バードウォッチング」という活動なのか。ここで改めて本文の読者にも振り返ってみてほしい。私たちが「何もしない」ことを望むのは一体なぜなのか。どのように言い換えることができるのか。それは端的に、私たちは自分たちの生活空間、メディア環境から「距離を取る」ことを欲しているのではないだろうか。「何もしない」というのは私たちを取り巻くものへの「NO!」の意思だと私は思う。私たちは「何もしたくない」という状況にあこがれて遠出をする。旅館やホテルでくつろぐことは、確かに「何もしない」状況ではあるが、「遠出をする」という意味において厳密ではない。私たちの「何もしない」ことへのあこがれは、言い換えるならば「今・ここ」を離れたいという願いなのだ。作者の経験が手掛かりになるのは、それが鳥への解像度や理解度を高めることで、木や虫などが織りなす「自然界」へ没入し、生活空間から「距離を取」っているからだ。様々な文脈に目を向け、自分が生きている場所への解像度を上げ、自分の知らなかった世界を覗いてみる。私たちが生きるうえでは必要のない文脈や関係性に触れてみる。これが「何もしない」ということなのだ。このことについて著者は言う。「本書を手にした人が本当に何もしたくないのなら、驚きだ。何もすることがないと思うのは、相当のひねくれ屋か冷淡な人ぐらいだろう。注意経済に直面して私が抱いている圧倒的な不安は、その仕組みや効果の生でもたらされるだけでなく、同じ経済の原料となっている、非常にリアルな社会的、環境的不正義を認識して、それについて思い悩むことから生まれている」、「そんな状況でこそ、「何もしない」が大いに役に立つのではないだろうか。私にとって「何もしない」とは、ひとつのフレームワーク(注意経済)から離れることであり、それは考える時間を持つためだけでなく、別のフレームワークでほかの活動に従事するということなのだ」。
おわりに
「何もしない」こととは、別の世界に触れてみるということである。このことに納得ができれば、休日に何もしないことの罪悪感の正体も解決策もわかる。正体は、現代のメディア環境であり、解決方法はすでに述べたとおりだ。「何もしない」ことで憂鬱ではなく幸せを得るには、どこか知らなかった世界へ参入することに違いない。そして、何もしない日、何もしない時間を作るためには、自分のなかにあるささやかな興味関心を大切にしてあげることだと思わずにはいられない。