【あらすじと感想】小説『オーバーヒート』「不安」と「終わり」の充溢と生

小説『オーバーヒート』「不安」と「終わり」の充溢と生

哲学者・小説家 千葉雅也の言葉

哲学者・千葉雅也『オーバーヒート』を読んだ。物語は、京都の大学で哲学を教えている「僕」の日々を縦軸とし年下の男性の恋人との関係の揺らぎを横糸とした恋愛小説となっている。この小説の魅力をまず伝えるならば一つは「読んでいて気持ちのいい小説」ということ、そしてもう一つが「明晰であるが故の寂しさが丁寧に描かれている」のが率直な感想だ。

まず前者について。この小説は「僕」の一人称視点で物語が進むのだが、様々な事物との関係性が目まぐるしく変わっていく。日常のささやかなことを抽象的に捉えることで、人生訓や、日々の愚痴のようなものを引き出す。「この部分は背景描写か」という形で読み飛ばすのはもったいない。SFやミステリーのようなインパクトのある出来事はないものの、この「関係性」の移り変わりは、読者を飽きさせることはない。例えば以下は「僕」が駅のそばに置いていた自身の自転車を取りに戻るシーンの描写である。「しかし自転車の取り締まりもこの間ひどくなった。新たな言葉をでっちあげて社会問題化する連中に対抗して、そんな言葉をそもそも認めないという闘いが必要なのである。ともかく、魚の骨のかたちで斜めに並ぶ列に紛れ込ませた僕の白い自転車は確かにそこにある。安心した」

最後に後者の魅力をお伝えしよう。まず主人公「僕」は極めて明晰な人物だ。設定としてもそうだし、前述した物事の捉え方についても、その考えの柔軟さからも思う。しかし、その繊細さゆえに「不安」や「終わり」もみえてしまうのだろう。その苦しさが「僕」からふと零れる瞬間がある。世界が自分を肯定してくれたときのように感じていた子どものころから、ランダム性に満ちた「人間」というものへの不安は「だがいつしかその幻想は霧散し、僕は本当に不安を抱えるようになった。オバケではない。人間への不安だ」という風に現れる。「終わり」は「何のゴールもないこの二人は、それぞれの死に至る時間を愛撫でごまかし合っている、いつか死ぬ。それでも、スカイダイビングで手をつなぐように落下速度は減速できるだろう。いや減速しかできないのだ」という形で感じ取ってしまう。不安に満ち、「終わり」が予感できてしまう感性を描いた稀有な小説。青春小説などは未熟さゆえの「不安」を描く。しかし、そのような小説に同調できる人生の時代は短い。『オーバーヒート』は長すぎる人生でふと感じる「終わり」の予感に足並みをそろえてくれる優しい小説なのだと私は思う。