青春小説の原点にして頂点『ライ麦畑でつかまえて』はなぜ人気か
人生のある期間でしか読めない本というものがあるとすれば『ライ麦畑で捕まえて』はその一冊になると思う。そして、この「ある期間でしか読めない」というのが『ライ麦畑でつかまえて』を名作たらしめていると私は思う。本論では『ライ麦畑でつかまえて』の人気の秘密を考察していきたいと思う。ただ、先んじて結論をいえば、その秘密は十代のすべての感情が詰まっていることが人気の秘密だと私は思う。
『ライ麦畑』は十七歳の男の子・ホールデンがクリスマス前のニューヨークを彷徨う話だ。これだけではとても退屈なものに思えるが、そうではない。本作はホールデン少年の一人称視点で語られているのだが、その語り口が魅力的だ。「もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたとか、そういった≪デーヴィット・カパーフィールド≫式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」。これは『ライ麦』の冒頭の一文。これだけでホールデン少年の人となりがわかるような文章である。少しだけ傲慢で、ひねくれていて、人の話より自分の話を聞いてほしい小生意気な十代の姿がありありと思い浮かべることができるはずだ。この語りで「ピン!」と来た人は、今すぐにでも本書を手に取ってほしい。物語はこのような語り口で続いていく。
さて冒頭で「十代のすべての感情が詰まっている」と書いた。もし本論の読者が十代でないとして、振り返ってみてほしい。どんな少年少女だったかと。ある人は孤独を感じていたかもしれない。ホールデン少年は「帰る家がないんだよ」という会話をしたあと「いよいよ僕もラジエーターから降りてクロークへ行ったんだが、途中でないたりなんかしちゃってね。どうしてだかわからないけど、泣けてきちゃったんだ」と独白する。自分の感情すら満足に言葉にできない。泣いている理由もわからなければ、その心との折り合いのつけ方もわからない。ただ「泣けてきちゃった」と彼は語る。あるいは、「自分は何にでもなれる」と考えていた人にはどうだろう。ホールデン少年は自分の「なりたいもの」を妹に言うのだ。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ」「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子を捕まえることなんだ」「馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね」。いかがだろうか。侘しくて泣いていた少年は、同じ心でまるでヒーローのような存在になりたいというのだ。大人になると次第に自分のことを形容する言葉で、心に折り合いをつけ、自身の身の丈を知ることになってしまう。そういうものと真逆にあるのがホールデン少年であり、十代だったころの私たちかもしれないのだ。ホールデン少年は、どんな人にとっても等身大の十代として映ることだろう。この十代特有の感情のふり幅が描かれていること。これが『ライ麦』の魅力のすべてだと私は思う。
最後に私自身が『ライ麦』に魅了された点をお伝えしたいと思う。今となっては恥ずかしい話だが、当時の私は、おそらく今でいうところの「中二病」で、「社会」とか「世の中」のあり方を素直に受け取ることができなかった。「大人」はズルく、「社会」は本当の善人を見捨てると本当に思っていた。この感情を抱くことになった具体的なエピソードは割愛するが、とにかく、そんなことを思っていた。だからこそ『ライ麦』の次の一文には自分の感じていたことを言葉にしてくれた気がしたのだ。ホールデン少年の妹・フィービーは言う。「兄さんは世の中に起こることがなにもかもがいやなんでしょ」。ホールデン少年は「違う。違うよ」と答える。このやりとりの詳細は本書に譲るが、彼女の言葉は彼にとって真実だ。そしてホールデン少年は私自身だった。もちろん「これは私だ! この本は自分のために書かれたのだ!」というような読み方は今となっては出来ないだろう。そうだとしても野崎訳の『ライ麦でつかまえて』は今でも私の本棚にある。そして、これからもずっとあり続けるだろう。