【解説試論】
『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』は何を残したか
--「顎」と「運命」と「愚かさ」の肯定について--

※ネタバレあり

先日『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』をみてきた。アニメ放送から20年ほど経過してからの映画化ということで話題になっている。鑑賞後の印象は「お祭り」と「同窓会」。「あのときの、あの動きが!」「あのキャラが!」というシーンが多く、古参のファンであれば満足できる作品になっている。逆にいえば一見すると単なる「お祭り」という印象しか残りかねない本作について、本論ではそこに込められた意図を読み解いていきたい。先んじて一言だけいえば、その意図とは「愚かさ」の肯定である

アニメにおける「顎」の意義

ところで、本作『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』において、キャラクターの「顎」がよく動くことに目がいってしまったのは私だけだろうか。一般的にアニメキャラクターの顎はあまり動かない。横顔であれば動くこともあるが、正面からキャラクターの顔をとらえた場合、顎ではなく口元を動かすことで表情は作られる。ただ、当たり前の話ではあるが本物の人間で考えた場合、顎を動かさず言葉を発することはほとんど不可能であり、上記の口元だけの喋りは非常にアニメ的な表現だといえるだろう。逆に顎が動くというのは写実的なのだ。そのような意味で『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』はキャラクターが生の人間に近づいていた作品だったといえる。なぜこのような表現をしたのか。私としては、このような生々しい表現自体を一つのメッセージとして解釈したい。

本作をリバイバルとして観るということ

理由は、本作のストーリーにある。話の核となるのは『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』にも登場した「デスティニープラン」だ。とても簡単に言ってしまえば、キラ・ヤマトら主人公たちが「デスティニープラン」の復活を目論む勢力と戦うというのが本作の骨子となっている。このことについて一つ踏み込んで言うとすれば、ストーリーの流れ自体に目新しいところはないということだ。「デスティニープラン」という計画、わかりやすい味方と敵、勧善懲悪、あるいは愛と正義の物語である。王道も王道。誤解を恐れずにいえば本作は『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』のリバイバルともいえるはずだ。

三つの「デスティニープラン」

このことを踏まえれば、皮肉なことに、あらかじめ人間のすべてを決定するという「デスティニープラン」は、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』である意味きちんと遂行されていることがわかる。「ある意味」というのは、この『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』という作品自体がリバイバル的であるが故に、メタ的な意味において、すべてが決められている「デスティニープラン」という表現の一つとなっているという見方だ。だが、このように作品自体を「デスティニープラン」として表現することだけが本作の注目すべき点ではないと私は思う。一本だけ補助線を引こう。その線とは「本作のキャラクターの動きが上述したように非常に写実的であるというのは現実世界で生きる私たちの比喩ではないだろうか」という考えだ。ほとんど決まりきった勧善懲悪も私たちは楽しんでいる。敵・味方のシンプルな構図やかつてのアイディアであった作中の計画であっても、私たちはそれ自体を「面白い」と感じてしまう。つまりキラたちの運命がメタ的に読める(=決められている)のであれば、それを見る私たちの反応もメタ的には読まれているはずだ(=決められている)。遺伝子ではなく「作品」によって反応を操作されている。そして写実的な表現は「私たち」の比喩なのだ。本作の写実的な表現と再び現れた「デスティニープラン」には、かつて触れてきたものでも楽しめてしまうといった私たちの「愚か」ともいえる習性に対する皮肉が、意図として組み込まれている気がしてならない。 一度ここまでの話を整理すると本作には三つの「デスティニープラン」が存在するということになる。一つは作中で登場するキラたちが立ち向かう「デスティニープラン」、もう一つは主人公・キラたちの運命がメタ的に決められている、リバイバルという意味での「デスティニープラン」、そして最後が「写実的な表現」に込められた、この「展開が読めてしまう」なかでも楽しめてしまう、悲観的な見方をすれば「作品」というものに反応が操作されている私たちに対する「デスティニープラン」という構図だ。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の裏テーマ

では、本作はそんな皮肉を表現するためだけのものかと言われればそんなことはない。このことを考えるうえで重要になってくるのが「笑い」だ。実は本作はシリアスなシーンにも関わらず「ギャグ」や「笑い」を挿入してくる場面が多い。素人ながら「不要では?」と思ってしまうほどだ。だけど、この「笑い」が、メタ的に「デスティニープラン」を組み込んでいる本作の裏テーマの一部ではないかとも思う。確かに誰かに決められたとおりに踊らされるのは愚かかもしれない。そんな愚かさでさえ「デスティニープラン」として組み込まれてしまっては、人生というものはあまりにもやるせない。「愚か」なことはずっと変わらないと宣告されているようなものなのだから。けれど、そのような中で生きるとしても多少なりとも「笑い」があれば、それなりに楽しく過ごしていける。楽しければ私たちの「生」は充分とまではいかずとも、生きるうえでの必要な満足は得られるのではないだろうか。「愚かさ」ですら肯定できるのではないだろうか。そういうことが裏テーマとして提案されていると私は思う。

「愚かさ」の肯定と未来への種

この「愚かさ」は不合理だ。いや不合理だから「愚か」なのかもしれない。いずれにせよ、そんな愚かさにまみれた私たちは、同じものを楽しめてしまうし、必要と不必要を明確に峻別することはできない。打算的であっても、どこかに計算ミスがある。そんな私たちだからこそ完璧じゃないものでも愛することができるし、無意味なものであっても好いていける。振り返れば『機動戦士ガンダムSEED』も、続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』も、これらを「完璧」だと賞賛する声は少なかったと記憶している。例えば、お茶の間を凍らせた砂漠の夜や手放しでカッコイイとはいえないキャラの私服設定、そしていつの間にか行われていた主人公交代。でも本作を鑑賞した人やこれから観るつもりの人は『機動戦士ガンダムSEED』シリーズを愛しているはずだ。完璧で、アニメ史として画期的な作品だったから好きだったのか。だから映画化まで至ったのだろうか。そうではないだろう。愛しているから観たい、必要だと思ったはずだ。そのことを象徴するように作中には次のようなセリフがある。「必要だから愛しているのではない。愛しているから必要なのだ」。アニメ放送時、賛否両論を巻き起こし、それから20年も経過した現在でも映画化ができるほどの作品に、これほどふさわしい言葉はない。そして私たち自身の「愚かさ」を肯定するためにも、これほど適切な言葉もないだろう。この「愚かさ」の肯定こそが、いつか到来する人類がみな自由である未来のための種なのかもしれない。