【要約・考察】『実況中継・社会学』
社会学者・北田暁大の言葉について
これから紹介する『実況中継・社会学』という本は冒頭で次のように書いている。「それがいまやテレビで「時事批評」する人たちだれもかれもが自称・他称にかかわらず社会学者と呼ばれ(…)ググってみたところ、経歴的にも議論の構成に関しても社会学とはまったく縁のないかたであることがわかり、びっくりしたことがありました」。このように「社会学者」の乱発があるせいだろうか。一部界隈では「社会学」というのが蔑称のように使われていることを見たことがある。本書は「社会学を明確に捉え、その中核にある理論命題や方法論、経験的観察のあり方を「投下機能主義+システム理論」というかたちで提示」することを目的としている。ただし、この本、かなり歯ごたえがあるものだということは一読者の感想として付言しておきたい。
だが、チャレンジする価値がある本であることは間違いない。この本では「ロバート・マートン」と「ニクラス・ルーマン」という二人の社会学者の理論を参照しているが、この二人、特にルーマンの理論は抽象的で難解なものとして有名だ。だが本書は、その抽象的なものを飼いならそうと具体的で身近な例が多く配置されている。私自身「なるほど、こう使うのか」と納得できたし、一方で「簡単でわかりやすい説明」に潜んでいる問題点にも気づかされる一冊となっていることは強調しておきたい。例えばそもそも「社会問題」とは、どこの誰が作るのだろうかということを考えたことはあるだろうか。この点についても第二章の「「問題」のつくられ方」という項目でもハッとさせられる部分は多いだろう。
さて本書を紹介する一文としてサムネイルで引用した「「他でもありえた可能性」を不可視化することへの問題提起であったといえる」という言葉の魅力も最後にお伝えしたい。昨今は「問題解決力」が重要視されていると思う。しかしこの能力は「どうすれば解決できるか」ということだけに重きが置かれている気がするのは私だけだろうか。一方「どうしてそうなったのか」ということを考えなければ、例えば「無敵の人」という形などで「社会」が大きな代償を払うことになる気がしてならない。「他でもありえた可能性」を考えないことは「自己責任」の言い換えに思えてしまう。だからこそ「他でもありえた可能性」に目配せする一文に私は「学問」というクールな世界に宿る温かい心を魅力的に感じるのだ。