【コラム】エッセイから読み解くフリーアナウンサー・住吉美紀の世界
「共感の女王」と呼ばれているフリーアナウンサーをご存じだろうか。平日の九時から十一時に放送されているTOKYO FM『Blue Ocean』で司会を務めている住吉美紀さんが、その人である。ラジオでは老若男女問わず、多くの人が寄せるメッセージに共感を交えながら番組が進行していく様子から、そのように呼ばれている。丁寧で真摯でありつつもカジュアルな雰囲気の当番組を聞くことは、一視聴者である私にとってなくてはならないものだ。
そんな女王に対して私は、どこか「距離」を感じていた。違和感、疑問と言ってもいいかもしれない。端的にいえば次の二つだ。
「その「共感」はどこからやってきたのか。本物の「共感」なのか」
「負の感情とどうやって向き合ってきたのか」
この疑問の詳細は後述するとして、住吉さん自身は最近「ミレモ」というWEBサイトでエッセイを開始した。題名は「50代、自分をいったん棚おろし」。
そこに書かれていたのは、直接的にも間接的にも先の違和への答えとなっている。少なくとも私にはそう読むことができた。本文では、この「読み」を書いてみたいと思う。
「共感」と「イメージ」
「その「共感」はどこからやってきたのか。本物の「共感」なのか」という疑問があると述べた。露悪的に表現するのであれば、その「共感」はある種の生存戦略ではないだろうか、ということだ。
一視聴者から見てみれば住吉さんの経歴は、帰国子女であり、日本有数の有名大学を卒業、NHKに入社、現在ではフリーアナウンサーとして活躍ということになる。傍からみれば、実に合理的で、順調なキャリアのように思える。そんな人だからこそ、イメージ戦略として「共感」をひとつの「キャラ」として自覚的に用いているのではないだろうか。
しかしエッセイ「50代、自分をいったん棚おろし」のなかに、次のような記述がある。
「私の世の中への興味の持ち方が、社会を空から俯瞰したような、ニュース的な”大きな視点”ではなかったことも大きい。自分の心が最も動く社会の見つめ方は、人間というものの内面をじっくりと探って、普遍的な共感を見つけることだった」
さらにエッセイには「忘れられないほど、傷ついたこともある」や「得手・不得手のバランスが悪い不器用な職員なりにも、精一杯働いているつもりだった。考えるほどに、ショックと悲しみと悔しさが膨らみ、涙が止まらなかった」と振り返るエピソードがたくさんあったのだ。特に「30歳で離婚後、婚活するも...人生で一番ヒドイ仕打ちを受けた彼氏のこと」という章については、驚くべき話ばかりだ。私がイメージしていた住吉美紀という人とはかけ離れたエピソードがでてくる。詳細はエッセイそのものに譲るが「誰の話だ、これ」と思えたほどだ。
これらのことから、私は住吉美紀さんに対して「人生を豊かにするために客観的な選択ができる人だが、そのために自分を偽れるほど器用ではないのかもしれない」と思わずにはいられない。そう考えると抱いていた疑問自体が、およそ荒唐無稽なものだったと思う。私ほど意地悪な見方をしている人でなくとも、住吉美紀さんの人となりを知りたい人にはぜひ一読をすすめたい。
負の感情について
しかし、ここで再び意地悪な疑問がふつふつと湧き上がってしまう。「負の感情とどうやって向き合ってきたのか」という疑問だ。前述したように住吉さん自身は多くの艱難辛苦を乗り越えてきた。
一方でエッセイには「この人を見返してやろう」や「この人に負けたくない」というような対決姿勢が全く見受けられないのだ。悲しい想いや、悔しい想いをしてきたはずなのに、そんな気持ちとどう折り合いをつけてきたのか。
残念ながらエッセイのなかには、この疑問に対する明確な回答はない。
しかし、これまでのことを踏まえると、二つのことが想像できる。
一つはトライアンドエラーを繰り返し、対決するという姿勢に不向きだと自覚した可能性。「社会人になる前からトライアンドエラーを重ねて進んできた」というのであれば、負けん気を前面にした自己研鑽を積んできたことはあるだろう。しかし、「既にそれまでのトライアンドエラーで、ニュースを読む、という技術に長けていないという自覚はあった」と同じように、不向きだと断定した結果、悔しい想いを誰かにぶつけようとするのではなく、自身の居場所を変えることで気持ちと折り合いをつけるという方法を採用してきたのではないだろうか。
もう一つの想像は悔しい想いや悲しい想いを、自身の業(カルマ)とし納得する方法。これは次の文章から想像できる。「きっとこれまでに私が恋愛で人を傷つけたことがあるとしたら、その罰を受け、清算する機会をいただいたのだ、と思うことにした。これで、私の恋愛カルマは解消されたはず」。もちろん、同じことを繰り返さないために、自己研鑽などは続けるものの、自分の受けた傷は、これまで自分が与えてきた傷であるとし、自身を納得させてきたのかもしれない。そう考えれば対決姿勢や報復感情とは折り合いをつけることができる。
しかし、いずれにしてもエッセイでは明確な答えが書かれているわけではないので、今後どこかの機会で本人の口から語られるのかもしれない。
おわりに
夏目漱石のことばに「のんきと見える人々も、心の底を叩いてみれば、どこか悲しい音がする」というのがある。そんな言葉のように、ラジオのパーソナリティーという立場や朝の番組という括りのなかでは決してみえてこない部分に、このエッセイで触れることができた気がした。エッセイに、自分の「読み」を重ねることが傲慢だという自覚はあったけれど、どこか感じていた「距離」が自分のなかから消えたように思う。『Blue Ocean』で何度かメッセージを読んでもらった一視聴者として、これからの視聴がより楽しみになった。当該ラジオを聞いたことがある人には、強く読むことを勧めたいエッセイだということは、改めて言うまでもないことかもしれない。