【歌詞考察】あいみょん『裸の心』分裂する歌詞の結末を考える
私たちが恋愛の曲に求めるのは、こういう歌詞だったのかもしれない。そんなことを思わせてくれるのがシンガーソングライター・あいみょんの『裸の心』だ。ただし、この曲にはハッピーエンドとバットエンド、どちらにも解釈できる仕掛けが施されている。本論では、この曲の人気の理由と、バッドエンドとハッピーエンドの2つの結末へ至るための解釈を歌詞に沿って紹介していきたい。
マイナスから始まる歌
「いったいこのままいつまで1人でいるんだろう だんだん自分を憎んだり 誰かを羨んだり」というネガティブな心情を吐露するところからこの曲は始まる。聞き手の自己評価が低いのであれば、この冒頭には共感を覚えるはずだ。ジンテーゼ合同会社が2022年に行った統計調査では「かなり低い~やや低い」が半分以上の結果となった。なるほど、シンプルな恋愛賛歌のような曲よりも多くの人に響きやすい形跡がここにはある。では果たしてそんな人が誰かを好きになることは可能なのだろうか。この戸惑いが『裸の心』の背骨だといえる。言い換えてしまえば、「誰かを好きになる」という前向きさと「自分のような人間が…」というような後ろ向きさ。この2つの間で引き裂かれそうになっている「摩擦」をこの曲は歌っているのである。
裸の心を抱えた「夜」の歌 バッドエンドについて
では改めて、この曲の2つの結末について紹介したい。まずバッドエンドについてだ。この前提として『裸の心』で歌われている恋の結末は誰にもわからない。それは「この恋の行く先なんでわからない」と歌われているとおりだ。ただ、この雲行きは怪しい。「どんな未来も受け止めてきたの 今まで沢山夜を超えた そして今も」という部分は、「どんな未来」をどう解釈するかによる。ただし、この「夜」は曲中でもう一か所登場する。「恋なんてしなきゃよかったと あの時も あの夜も」だ。このことを素直に関連付けるのであれば、超えてきた夜というのは、「恋なんてしなきゃよかった」と思ってきた「夜」なのだろう。そんな「夜」をどことなく思い出してしまうのだから『裸の心』で歌われている恋物語の結末には悲恋の雰囲気が漂わざるをえない。しかし、「実るかもしれない」と思わせる部分もあるのだ。
憧れを捨てた「私」 ハッピーエンドについて
問題は「この恋が実りますように 少しだけ 少しだけ そう思わせて」という部分をどのように解釈するかにかかっている。前提として、恋をしているこの人物は、自己評価が低いのは冒頭でみてきた。さらに「バイバイ愛しの思い出と 私の夢見がちな憧れ」ともある。自己評価の低い人間が憧れを捨てたとき、残るのは現実主義者であり、なおかつどちらかといえば悲観的な思考をする人物像だ。「もしかしたら」という可能性の話を許してもらえるのなら、この人物は寄せられている好意にも、あえて気づかないフリをしていたのか、もしくはネガティブに解釈していたのではないか、ということがいえるだろう。そんな人物が「伝えに行くから」と決心する。決心ができるほどの確信を得たのか、あるいは、我慢することができなくなったのか。どちらかとは明言されていないが、それほどの背景があるのだとすれば「この恋が実りますように」という祈りが叶うことは想像に難くない。
おわりに
流行歌というものが現れにくくなった背景として、個人の趣味嗜好が細分化したことが原因の1つとして考えられる。だが『裸の心』は、解釈の余地を与えることで、そんな散り散りになった人々の心を掴んだ。様々な解釈を与えることができるのが、これからの名曲の特徴の1つであるならば、『裸の心』は令和の名曲として、今後も人々の心に響き続けるのだろう。