【歌詞考察】164 feat. GUMI『天ノ弱』
誰も触れなかった「僕」の正体

本論を書くうえで164 feat. GUMI『天ノ弱』に関する考察をいくつか読んだ。根強い人気楽曲なだけに、やはり大量の考察があった。ただネットに転がっている解釈たちは、あまりにも書き手や聞き手の存在に寄せすぎているという欠点がある。この曲が愛や友情をテーマにしていることは理解できる。
しかし、『天ノ弱』という曲の重要なポイントはこれが死者からの視点だという点にあると私は思う。歌のなかにでてくる「僕」は「死者」である。どういうことか。さっそく歌詞の意味をじっくりと考察していこう。
前提の整理からはじめよう。
本曲の考察はしばしば「友情」や「(遠距離)恋愛」の歌であると言われている。その解釈は、歌詞のなかに「友達に戻れたらこれ以上はもう望まないさ」や「愛のうた」という言葉があるためだろう。
ただ、これでは凡百のラブソングと変わらない。あまりにも愚直すぎる。
しかし注目すべき、そして解釈が最も別れる箇所は冒頭の「今日はこっちの地方はどしゃぶりの晴天でした」だ。ここを素直になれない「僕」の心象風景とみることもできる。
だが、この読みはあまりにも「素直になれない」という心情を素朴に表現しすぎると私は思う。ほかの個所に目を移すと、歌詞の基調としては「いやでもちょっと本当は」や「待つくらいいいじゃないか」などの弱弱しさ、まどろっこしさが「素直になれない」部分を表現している。翻ってみると「どしゃぶりの晴天」という部分が「素直になれない」の表現だとすれば、伝え方が実直すぎるのだ。
そこで、ここは「どしゃぶりの晴天」をそのままの意味で捉えてみよう。だが「どしゃぶりの晴天」などという天候はあり得ない。そして、このあり得なさは「僕」のいる場所が「あり得ない」場所ということを示しているのではないだろうか。現世ではあり得ない場所。つまり、あの世である。
そのように考えれば、以下の歌詞の解釈も変わる。
「昨日もずっと暇で一日満喫してました」
ここに解釈は不要だろう。「僕」が「死者」であるならば当然である。
「進む君と止まった僕」
ここも「生者」である「君」と「死者」である「僕」の対比として読むことができるはずだ。
そして「姿は見えないのに言葉だけが見えちゃってるんだ」という点。「天ノ弱」を死者から生者への歌として捉えるのであれば、例えば「(君から僕の)姿は見えないのに(君から僕への)言葉だけが見えちゃってるんだ」と補完することもできる。想像力を含ませれば「君」は「僕」の墓前を訪れ、日々のことを語る。その様を「僕」は複雑な感情で受け止めているという背景が浮かび上がってこないだろうか。
冒頭に書いた「書き手や聞き手の存在に寄せすぎている」という意味がここで明らかになったと思う。書き手も聞き手も生きている。その生の範囲でこの歌を捉えようとしているからこそ、この「死者」という点を見過ごすのではないだろうか。一方で、このような解釈ができる楽曲自体の豊かさは驚くべきものだ。さすがヒット曲。「晴天」以上の「天晴」が、この曲に似つかわしい賞賛の一言だと思わずにはいられない。