【要約・書評】『ネット右翼になった父』大切な人に「ネトウヨかも?」と思ったら読むべき本
「実家に帰ったら両親が「ネット右翼」になっていた」というのは、筆者の周囲でも耳にする話だ。ここでいう「ネット右翼」の定義については諸説あるが、今回参考にしている『ネット右翼になった父』では以下のことを特徴としている。
「①中韓(主に韓国に対しての批判 ②社会的弱者に対する無理解(生活保護・シングルマザー・発達障害関連での発言) ③保守論壇の主張に含まれる「伝統的家族観の再生・回帰」「性的多様性への無理解」の影響を受けているように思えるもの ④ミソジニー(女性嫌悪・蔑視)が感じられるもの ⑤排外主義(日本文化の維持についての危機感) 」
『ネット右翼になった父』は、著者である鈴木大介が「なぜ、父はネット右翼になってしまったのか」という自らの問いに答えるため、亡き父の言動や思いをたどっていく本となっている。「ネット右翼とは何者なのか」「なぜ、そうなってしまったのか」「家族だったとしても敵として対峙する他ないのか」という深い懊悩に満ちた一冊だ。本論では、そんな著者がたどった足跡を追うとともに、大切な人に「ネット右翼かも」と思ったときに読むべき本として本書をオススメする理由を書いていきたい。
「ネット右翼」だと診断する前に
繰り返しになるが、著者である鈴木氏は父の死をきっかけに、晩年「ネット右翼」のような発言が多くなった父が「なぜネット右翼」になったのか、という問いに答えるため、父自身のことを調べていく本である。だが、調べていけば調べていくほど、妙な出来事が起きる。例えば「伝統的家族観の再生・回帰」という評価軸についてのことだ。「価値観のブレというよりも、父の生き方そのものにずいぶんと矛盾があることが顕在化してきた」。どういうことか。
確かに「「だから女の脳は」みたいなジェンダー配慮を真っ向からシカトした発言も、非常に保守っぽいし、ネット右翼っぽい」としたうえで、実生活のほうでは、定年退職後の父親について「父は台所に入りびたりになり、三食の炊事を自分の役割にしてしまった」と語る。また鈴木氏が現在の妻との結婚に対して「結婚は家の間での人身売買のように感じる」と吐露した際、「父は「そもそも伝統的家族とは」みたいなことは一切語らず、「今の法律や税制上、結婚しないまま同棲を続けていると千夏ちゃん(妻)が不利になるから結婚した方がいい」といったことを返してきた」。さらには「在職中も父は有能な女性の起用を多数行い」、鈴木氏の姉も「「お父さんはそうやって活躍している女性たちを私に引き合わせるのがものすごく嬉しそうだった」と振り返る」。これらのことを鑑みて「やはりどう振り返っても、父は保守的・伝統的家族観とは別の価値観で生きていたとしか思えないのだ」と結論づける。
お前のことを誇らしく思う
本書の読者でもある私にとって衝撃的だったのが、著者の叔父の次のような言葉だ。「「あのなあ、大ちゃん。世代と年代は、切り分けて考えてくれないか」(…)それに続いて出た「わかってくれよ」という言葉に「懇願」の色が滲んでいた」。 もし、自分の大切な人が、ネット右翼になったと思ったとき、そして本書のようにその思惑と現実にズレが生じたとき、どのように振る舞うのが正解なのだろう、と思わずにはいられない。しかも、それが単なる「老い」によるものが主要因であったとしたら…。糾弾して、反省を促して、けれども「わかってくれ」という言葉で自らの「老い」に負い目を感じさせるようなことになったとして、それでも「ダメなものはダメ」だと激しく叱責するのが、正しいことなのだろうか。自分にとっての「大切な人」を、言葉によって、タコ殴りにすることが、本当に正しいのか。そんなことを、本書を読みながら考えてしまった。本文を読んでいる読者は、どう思うだろうか。
往々にして自分にとって「大事な人」というのは、相手も、そんな自分のことを大事に思ってくれていると思う。本書の著者とその父の関係も例外ではない。父が差別的な意味が込められている「ヘイトスラング」を使用することに対する著者の姉の証言だ。少々長くなるが、重要な部分なので引用したい。「「おとんは大介のこと、仲間であり、家族の誰よりもいろいろなジャンルの話題が通じる相手だと思っていただろうし、筆一本で食べている、弱い人たちのために筆をとっている息子を誇らしく思っていたはず。おとんの口にしたスラングは、そんな誇らしい息子への語りかけと、マウンティング、ちょっと悔し紛れの『この言葉知っている? 俺知ってるぜ?』的な感じの両方があったんじゃないのって私は思う」」
悲劇と呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。「ヘイトスラング」は誇らしい息子へのコミュニケーションツールだったのだ。この話について「出来すぎている」「脚本っぽい」と訝る人もいるかもしれない。だが、私自身はありふれた話だと思う。なぜなら、私にも似たような経験があるからだ。
私の場合、母がそうだった。本書にあるような右傾化コンテンツを試聴しているのを何度か目にしたことがある。そのことを知った当時、本論の冒頭で述べた「実家に帰ったら両親が云々」という事例を知っていたので、すぐに「これか」と思った。このことについて、私が相談したのは父だった。父からの答えは「母さんは○○(私のことだ)ともっと話したいんだよ」というもので、当時の私には意味不明であり、的外れにも思える解答だった。だが、今になってわかる。父が言っていたことは当たっていたのだ。そして同時に、『ネット右翼になった父』の著者と同じように、私自身が「ネット右翼的なものへのアレルギー」を持っていたことも。
読んでほしい理由
そう。私が本書を薦める理由はここにある。「ネット右翼的なもの」を厳しく糾弾するのではなく、なにがそうさせたのか、自身の認識はどうだったのか、という深い内省が本書にはある。白黒はっきりさせること、「客観的事実」に基づいて相手を糾弾することが重要な現代、けれども多くの人が「それでも大事な人なのだ」と思える人間関係があるはずであり、「事実」や「数値」で綺麗に清算できるものでもないと思う。本書には、そんな政治信条の対立から立ち上がってしまう葛藤を手助けするための指摘や指標がいくつもある。分断と対立がますます深くなるからこそ、私は本書を多くの人に読んでもらいたい。