【歌詞考察】Chinozo『グッバイ宣言』

【歌詞考察】Chinozo『グッバイ宣言』

それでも会いたい人がいる。そんな恋のための罪の歌

僕らにとって「正義」や「悪」とは何か。ボカロP・Chinozoの楽曲『グッバイ宣言』の「引き籠り絶対ジャスティス」という歌詞からは、そんなことを考えさせられてしまう。

ここでは、現代社会を分析する専門的な知見を用いて『グッバイ宣言」の歌詞をなぞりながら、この曲がなぜ人気なのか、流行った理由とは何かについて考察していきたい。

この曲に惹きつけられる人や気になっている人、流行の秘密が知りたい人は、ぜひ読んでいってほしい。


この曲の歌詞にみる構造は非常にシンプルだ。「引き籠り」は正義であり、「街」「タウン」「都会」は悪というのは一度でも聴いたことがあればハッキリとわかる。ではこの「正義」と「悪」の中身をみてみよう。

歌詞のなかで「都会」は「正論も常識も意味を持たない」という言葉に、「タウン」は「クレイジー」という単語に紐づいている。

一方で「引き籠り」を称賛するサビの部分では「俺の私の音が君に染まるまで」や「俺の私の音が君を包むだけ」となっている。

この対比をまとめてしまえば「悪」とされているのは「混沌」であり「正義」というのは「純粋」なものとされていることがわかる。歌詞には「マリオネットな感情に気付いてしまった」とあるが、これも前述の対立の派生として捉えることができるだろう。「マリオネット」や「操作されること」は、誰かの意志が入り込んでいるため「純粋」ではないというニュアンスが現れてくる。

また「止まぬNervousに拐われないで」という歌詞も同様だ。

「Nervous」の意味「不安」「緊張」が他者や場面に誘発される感情であることから、やはり『グッバイ宣言』の価値基準は「純粋なもの」ことが「正義」であり、「混沌」やその原因となる「異物性」、街に溢れる人々、言い換えるならばランダムな「他者性」を敵視していることが明確になっている

そしてこの価値観こそが、この曲の人気の理由なのだ。

どういうことか。

現代では、この「混沌」やランダムな「他者性」「異物性」を嫌悪する傾向がある。例えば本のジャンルとして今や大きなボリュームを占める「自己啓発」系について、社会学者・牧野智和は、ノイズを除去する姿勢が特徴だとする。少々長くなるが『日常に侵入する自己啓発』という本から引用してみる。

「自らを悩ませ、傷つけ、汚し、また変えようと努力しても変えることのできない対象としての「社会」という程度にしか表現できないものだが、いずれにせよ、啓発書がまずもって私たちに示しているのは、自分自身の変革や肯定に自らを専心させようとする一方で、その自己が日々関係を切り結ぶはずの「社会」を忌まわしいものとして、あるいは関係ないものとして、遠ざけてしまうような、そのような生との対峙の形式なのではないだろうか」

この指摘を受け、書評家の三宅香帆は、働いていると本が読めなくなる理由を、過酷な労働環境への対応策としての「ノイズ」の除去の一環だと語る。「文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にとってノイズを提示する作用を持っている」と語る。「知らなかったことそ知ることは、世界のアンコントローラブルなものを知る、人生のノイズそのものだからだ」(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)

もちろん本というジャンルだけではなく、インターネットにも気に入った検索結果しか提示しない「フィルターバブル」という機能があるように、やはり僕たちには「混沌」やランダムな「他者性」を忌避する傾向があり、そういった環境に生きていることは認めざるを得ないだろう。

僕らは『グッバイ宣言』の価値観に励まされると同時に、その価値観を強化している。この循環こそ、本曲の人気の秘密ではないだろうか。