【要約・考察】『人間はどこまで家畜か』現代への「疑念」を提示する渾身の一冊

【要約・考察】『人間はどこまで家畜か』現代への「疑念」を提示する渾身の一冊

世界や社会に対する個人の姿勢を分類するのであれば「肯定」「否定」の間に「静観」「懐疑」があると思う。そして本書は「懐疑」の本である。本書は「自己家畜化」というキーワードを武器に「ADHD」や「社交不安症」の増加の謎にメスを入れ、その背景にある「生物」としての人間、そして社会構造の変化を分析する。もし今、本論の読者が「健康志向」の風潮や「コスパの良い人生」という言葉に違和感を感じるようであれば『人間はどこまで家畜化』は必読の一冊になるだろう。ここでは、この本の大筋と、本書の立ち位置である「懐疑」について、どういうことか少し詳しく書いていこうと思う。

本書の大筋・あらすじ

さて、「自己家畜化」という言葉について軽く説明しよう。著者である熊代亨は「人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、そのような生物学的な変化のこと」としている。この言葉を核として本書は展開されるのだが、ここでざっくりと『人間はどこまで家畜か』の構成を紹介しよう。全五章で構成されており、一章は生物学からみた「自己家畜化」という言葉の説明、二章は歴史をなぞることで人間の「自己家畜化」への変遷を追う。三章は前章でみた歴史の発展を「資本主義」という点から紐解く。続く四章と五章は、これまでの考察を踏まえ、「自己家畜化」が進む世界の「生きづらさ」とこれからの人間と「社会」の未来予想図を描いていく。個人的に思う本書のポイントは第四章だ。詳細は割愛するが、「自己家畜化」への変化は「資本主義への適応」と著者は指摘する。つまり、「自己家畜化」の進行は資本主義的価値基準で様々なモノ・コトを測ることの進行でもあり、「人生」すら、その進行に侵されていく。そこで著者は言うのだ。「それにしても、コスパの良い人生とはいったい何でしょう」と。私も著者の疑念には同意する。百歩譲って「コスト」は理解できる。金銭のことだろう。しかし「パフォーマンス」とは何を指すのだろう。このことが、コストを支払った者が得られる「幸福」のようなものだとすれば、それは、測れるようなものなのだろうか。昨今は「多様性」の時代なのだから「コスパ」という言葉でコトやモノを語るのは、ある種の傲慢ではないかと思わずにはいられない。

本書への考察 -「懐疑」について-

だからといって「自己家畜化」がけしからん、という話でもない。この点は本書も「それ自体は、必ずしも悪いことではありません」とし当然、踏まえている部分だ。なにしろ「より穏やかで協力的な性質」となっていくのだから。しかし、それでも本書は「懐疑」の一冊なのだ。例えば次の一文である。少々長いが引用しよう。「発達障害という疾患概念は、そのように変わりゆく学校環境に適応できない児童生徒への介入に生物学的な根拠を提供し、正当化するものでした。(…)それで救われた人も大勢いたでしょう。他方でそれは厳格な管理下に置かれていく学校環境や職場環境についていけない人々を浮かび上がらせ、と同時に、それらの環境の成立を助け、正当化する一端をも担っているようにみえます」。より具体的な問題点は本書に譲る。とはいえ、この文章で語られることを私なりに言い換えるならば「環境」に適応できる者と出来ない者を分別するのは、適応できる者であるという危険性、そして、その環境自体を疑わず温存し、正当化し続ける根拠を「自己家畜化」の進行は強化してしまう。このことの危うさに警鐘を鳴らしているのだと私は思う。この構図、つまり適応できる者と適応できない者の分断が生む辛さを私たちは知っているはずだ。例えば今でこそ「パワハラ」や「セクハラ」は咎められるべき行為として認識されているが、それまでは「パワハラ」に耐えられなければ「根性なし」であり「セクハラ」は黙認されてしまうものであった。耐えられなかった人間は、どれほどの自分を責めただろうか。想像するに余りある。いずれにせよ、今日進行している「自己家畜化」による環境の温存は、構図としては同じであるといえる。そして当然のように、馴染めなかった人間は今日も自分を責めているのだろう。だが、そんな現状が「けしからん」という本ではないことは、繰り返し述べておきたい。なぜなら「自己家畜化」は「より穏やかで協力的な性質」の再生産なのだから。このような変化が進む社会への「肯定」と「否定」の間に本書はある。この本が投げかける問いと答えは、ぜひ手に取って知ってもらいたい。