【解説試論】『葬送のフリーレン』は何を描くか
--ネガティブ・ケイパビリティの物語について--
アニメ『葬送のフリーレン』が人気アニメだということに異論がある人は少ないと思う。タイトルにある「フリーレン」というのは舞台となっている世界の魔王を倒したパーティーのメンバーの名前だ。女性の魔法使いのフリーレンは人間より寿命が長いエルフという種類のキャラクターで、当然のことながら他のパーティーよりも長生きすることになる。魔王討伐後の平和な世界で魔法集めをしていたフリーレンだが、数十年の時が経ったある日、パーティーの一人であった勇者・ヒンメルの死を知り動揺する。そんな彼女がヒンメルの死をきっかけに「人間」を知るため旅に出るというのが大まかなストーリーだ。さて、このアニメの人気の秘密については諸説あると思うが、ここではフリーレンの「人間」を知る旅が、実は私たちが欲している能力「ネガティブ・ケイパビリティ」を表しているのではないか、という説を示していきたいと思う。
「ネガティブ・ケイパビリティ」とはなにか
哲学者・岩内章太郎は『〈私〉を取り戻す哲学』で「ネガティブ・ケイパビリティ」を「現在、精神医学を中心にさまざまな領域で注目を集めている概念」、そして「いつまでも決断できない、うじうじした人よりも、責任を引き受けて決断で消える主体的な人の方が、家庭や恋愛や会社では重宝される。(…)これが広く共有されている一般通年だし、この忙しない社会が求めてくる価値観でもある」としたうえで「ネガティブ・ケイパビリティは、簡単に答えを出したり、処理することのできない事態を直視する能力」と紹介している。どうだろうか。この「簡単に答えを出したり、処理することのできない事態を直視」というのはまるで旅をしているフリーレンの状態そのものではないだろうか。
「言葉」を操る魔族というキャラクターが象徴するもの
さて『葬送のフリーレン』には「魔族」という、いわばフリーレンたちの敵となるキャラクターが存在する。そんな「魔族」の特徴として「言葉を操る」というのがある。人語を介して人間らとコミュニケーションをとることはできるものの、その言葉の意味は理解しておらず、思考も人間とはかけ離れている。あくまで敵を油断させるためだけに「言葉」を使用するのだ。いわば「人間の心というものは、「○○」という言葉を使えば、「××」という反応をするらしい」という大雑把な「人間」への理解で「言葉」を使役しているといえるだろう。ところでフリーレン自身も「人間」を知る旅などしなくても、「人間」を知ったと思うことはできたはずだ。「魔族」のような理解とまでは言わずとも、十年もの間、ヒンメルらと旅に出ていたのだから。そうでなくても「わかりませんでした」と結論付けることだって出来たはずだ。しかし彼女は、知るための旅にでる。このような姿は魔族たちと対極にあることは注目に値する。
「人間」を知る、「心」を知る
『葬送のフリーレン』の人気だけで「ネガティブ・ケイパビリティ」を実は私たちが欲している能力と言ってしまっていいのだろうか。実は数年前にも「ネガティブ・ケイパビリティ」を表している作品があった。映画化もされたアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』である。この物語は「武器」として扱われ続けた少女ヴァイオレット・エヴァーガーデンが誰よりも大切にしていた存在であるギルベルト少佐から聞かされた「愛してる」という言葉の意味を探していくというものだ。そう、兵器として育てられたエヴァ―ガーデンには「愛してる」の意味がわからなかったのだ。このように『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も分からないことを直視し続ける作品だといえる。『エヴァ―ガーデン』自体は『葬送のフリーレン』のほど時が進むことはない(数十年の時が流れる描写はあるが、作品自体の骨子ではないと思う)。ここで改めて2作品の放送時期を確認してみると『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の放映は2018年、『葬送のフリーレン』は2023年という風になっている。「ネガティブ・ケイパビリティ」が「簡単に答えを出したり、処理することのできない事態を直視」であることから考えると『葬送のフリーレン』のほうが作中で経過する時間を鑑みると「ネガティブ・ケイパビリティ」の表現が色濃く出ているといえるだろう。そしてこの2作品の人気を鑑みると、私たちが「ネガティブ・ケイパビリティ」を実は欲していると考えることができるのではないだろうか。
即断即決の時代への処方箋
前述の岩内による「この忙しない社会が求めてくる価値観」という言葉を素直に受け止めると現代はいわば「即断即決の時代」と言えるだろう。たしかにサブカルチャー評論家の宇野常寛は00年代の特徴について「決断主義」という言葉を用いたことがある。意味合いとしてはバブル崩壊後、終身雇用や専業主婦のようなレールではなく自分の生き方は自分で決めなくてはならないという「サヴァイブ感」を表したものだ。そこから20年以上たった現代、決断を強いる社会のあり様に違和感や限界のようなものを感じているからこそ、私たちはフリーレンの旅路に魅力を感じるのではないだろうか。