【要約・考察】『日本の思想』「日本」という国を幻惑する「思想」とは何か

【要約・考察】『日本の思想』「日本」という国を幻惑する「思想」とは何か

あえて挑発的なことを言えば「日本」という国、あるいは社会を知りたければ、まずはこの一冊からだろう。それが名著にして日本論の古典、政治学者・丸山真男の著書『日本の思想』である。「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」の四章で構成されている本書を、簡潔に要約することは筆者の手に余ることは正直に告白しなければならない。なにせ相手は丸山真男。本屋にいけば、その解説書が何冊も並んでいるのだ。したがって本論では私自身が関心を持ち、かつ本論を読んでくれている人の関心を引きそうな表題「日本の思想」について紹介し、最後に考察として、本書の注意点を簡単に示したいと思う。


日本社会にとって「思想」とは何か

丸山の問題意識、つまり本書の出発点は次のようなものだ。「ところが日本では、たとえば儒学史とか仏教史だとかいう研究の伝統はあるが、時代の知性的構造や世界観の発展あるいは史学的関連を辿るような研究は甚だまずしく、少くも伝統化してはいない」。このことを私なりに言い換えれば、宗教史や倫理史のようなものは存在するが、例えばデカルト哲学(心身二元論)やマルクス主義(下部構造・上部構造、もしくは資本家と労働者という階級的な世界観)に見受けられるような、今後の国の発展に寄与するよ「世界観の発展」に至るほどの思想的な伝統が日本には存在しないことが、ここでは指摘されている。この指摘について「いや、そんなことはない。世界観の発展というからには仏教的なものや、シャーマニズム的なものなどが、日本という国に根付いている。これが「世界観」であり、直接的にせよ間接的にせよ、国を発達させることに貢献したのではないか」という反論が思いつく。だが、丸山の言いたいことはそういうことではない。「問題はそれらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないところにある」。そう、丸山は、人によっては「伝統」として括られそうな雑然とした状況を「無思想だ」と批判する。

しかし、である。よくよく考えてみればこの「無思想」、一体何が問題なのだろうか。丸山は次のように続ける。「これは国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる」。丸山としては、この「無思想」の問題は、国家あるいは政治的危機について統治者の都合により、即興で作られた「伝統」が、あたかもそれが本物のように感じられてしまうことに問題意識をもっているのだ。「本稿の範囲を超える」としつつも彼は、この思想的無秩序が「天皇制(イデオロギー的には國體)による正当化にまで統合された」と述べる。

このようなことについて「国」や「政治」で考えるとピンとこないかもしれない。しかし「個人の内面生活」のような身近な場面で考えるならば、仕事場などの雑談などで思い当たるところがあるのではないだろうか。例えば「日本人は真面目だ」「昔はがむしゃらに働いていた」という武勇伝。しかしよくよく話を聞いてみれば、携帯がないのでサボれるのは今より容易いだろうし「二日酔いで出勤、午前中まで寝てた」なんて話も耳にしたりする。「真面目」ではなく「めちゃくちゃ」の間違いではないか、と思いたくなるが、当事者的には「真面目に」働いていた。『プロジェクトX』あたりで拾ってきた過去のイメージが、いつの間にか自分の過去にすげ変わっているのだろう。いや、あるいは部下を「真面目に」働かせるために、さもそれが「ビジネスパーソンたる人間の伝統である」という風に語っているのかもしれない。どこからともなくやってきた「過去」が「支配者(というのは大袈裟だろうか)」の正当化に用いられるなんていうのは、よくある話だ。いずれにせよ「思想的無秩序」からなる「個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰」による正当化は、このようなところにもみられる。このように「国家」のような大きな話や私たちの身近な出来事についても、丸山の洞察は私たちが現代社会を捉えるうえでも重要な視座を与えてくれる。未読の人にはぜひチャレンジしてもらいたい。

たったひとつの注意

しかし丸山自身は超能力者や預言者でもない、一人の政治学者である。当然のことながら、その考察には時代的制約や本人の気質による偏向もあるだろう。本書全体を貫く図式としては「欧米=先進」「日本=後進」という見方だ。丸山自身「ポツダム宣言」の受諾の通告に対して、主権が天皇から国民に移行したとし「八月革命」なる説を唱えているが様々な批判(単なる「法的な主権の移行」を「革命」と呼ぶことなど)を受けた。

つまり、ここで述べたいことは丸山が用いている図式は、果たしてどの程度妥当なのかという点だ。これは「やっぱり日本はスゴイのだ!」ということではない。むしろ、このような図式が暗黙の前提にあるからこそ「では欧米の思想や考えを取り入れるべきなのだ」という考えに陥らないよう注意しなくてはならないということをここでは述べたい。なぜなら、このような「節操のなさ」がますます「思想的無秩序」を招くのだから。二―バーという神学者が「神よ、変えてはならないものを受け入れる冷静さを、変えるべきものは変える勇気を、そして変えてはならないものと帰るべきものとを見分ける知恵を我に与えたまえ」という言葉を残しているが、丸山の考察に対しても私たちは、このような姿勢で向き合うべきなのである。