【要約・考察】『14歳からの社会学』宮台真司を読むなら、まずこの一冊から!

【要約・考察】『14歳からの社会学』宮台真司を読むなら、まずこの一冊から!

「人が抱えた困難や弱さに寄り添わないなんて、ひどい人だ」。宮台真司という社会学者が一般向けに書いた本を読んで、私はそんなことを思ったことがある。自己責任論の嵐が吹き荒れる時代に、傷つくことを肯定し、タフに生きることを奨励しているように読めたからだ。けど本書『14歳からの社会学』を読むことで、宮台真司に対する大きな誤解が解けた。「ひどい人だ」と思った頃、私はまだ学生だった。それから数年経った今ならわかる。私たちは「強く」生きるほかない。そして、その「強さ」を求めたあげく、人生がとんでもない方向を向かっていかないよう、宮台真司はこの本を書いたのだと思う。ここでは本書の内容に触れながら、この「強さ」の必要性について考察していきたい。


「強さ」と「自由」

本書はトピックごとに章が分けられており、それぞれ「他人」「ルール」「性愛」「仕事」「死生観」「自由」という風になっている。充分に明瞭な区分けだが、これらのトピックは二つに分類できる。その分類というのが「社会」と「世界」だ。宮台による「社会」の定義は「コミュニケーション可能な全体。今日では<社会>とは人間界のことだ」とする。一方で「世界」は「ありとあらゆるものの全体」としている。図式化すれば、「世界」のなかに「社会」があるという形になる。先程のトピックに当てはめると「性愛」「死生観」「自由」は「世界」、「他人」「ルール」「仕事」は「社会」に当てはまるだろう。


ところで、本書では至るところで生きることの厳しさが語られる。


例えば恋愛について、詳細は本書に譲るが「傷つきたくないけど、愛に包まれた関係が欲しい」という願望に対して「幼稚すぎる」と一刀両断する。宮台は傷つくことを否定しない。これは「強さ」と「自由」を語ることと同義だと私は思う。


どういうことか。


宮台は自身の言動が遠因となってしまったと思われる親しい人の死に触れつつ「ぼくは別の行動をとるべきだったんだろうか。それはいまもわからない。ただ、ぼくがぼんやりと思ったのは、無力感じゃなく、事実の問題として、<世界>は思い通りにできないんだ、ということだ。どんなによかれと思ってやっても、意外な現実が訪れることがある」と語る。「世界」に触れることは「社会」で生きるよりもずっと傷つく可能性が高くなる。


ここで思い出してほしいのが「社会」と「世界」の定義だ。宮台は「社会」を「コミュニケーション可能な全体」とした。「世界」は「ありとあらゆるものの全体」だ。


もし私たちが傷つくことを恐れ「社会」に閉じこもったとしよう。コミュニケーション可能なことは「ズルさ」を招き、「人を操ること」の可能性をちらつかせる。そして、人を操ることの最もシンプルな方法は「損得勘定」を用いたものだろう。しかし、こうした関係のなかに生きることは「自由」なのだろうか。その中で生きることは本当に、充実した人生として生きることになるのだろうか。計量可能な「価値」が失われたとき、それでも笑って過ごせるように、「世界」のなかで誰かとつながるために、私たちは強くあらねばならない


「社会」と「世界」の狭間にて

宮台は「社会」を包摂する概念として「世界」という言葉を使っているが、身近な人の死を「世界」と結び付けていることを踏まえると、先の図式は誤解を与えてしまう。「社会」のなかに、陥没穴のような形で「世界」に通じる人の心がある。人の心はコミュニケーションの可能性や合理性を飛び越えた「世界」に通じているのだ。


だからこそ、宮台は「意思」を重視している。「ぼくが社会学者だというと、なんでも社会のせいにするとか、なんでも理屈で考えるというイメージを持たれがちだ。けど、それはあり得ない」。


一方で、この考えには次の疑念を抱くことができる。「端的な「意思」が、実はよく見ると、社会にとって方向づけられている」のではないか。宮台は、この考えを認めつつも、この「意思」が「この世ならざる存在」に魅了されることも「感染」といい、それも認めている。彼は、人が秩序を維持する営みの源泉としての「内なる光」は「社会」によって埋め込まれるという社会学者・パーソンズの考えを紹介したあと「人間にうめこまれた「内なる光」が出発点になるという考え方をしている。(…)でも一方、ぼくは「スゴイ人」に「感染」することを肯定してもいる」と述べているのだ。


「傷つくこと」は確かに怖い。できれば避けてとおりたい。しかし、それでも「世界」は不意に私たちを傷つける。そのとき計量可能で計算可能な「社会」に退避するのではなく、他者という「世界」に踏み出す勇気を本書は与えてくれるのだ。


おわりに、あるいは少し長めの注釈

般に、社会改革を目指す本は「どのように変えるか」という話と同じ程度に「誰が変えるのか」という視点が重要になってくる。「階級論」や「革命の主体」と名付けられるこの議論は、「プロレタリアート」や「ルンペンプロレタリアート」、あるいは「党」に多くの思想家が革命の光をみたことは、改めて確認するまでもないだろう。そういった観点でみたとき、宮台の議論には、こういった「革命の主体」が不在であることが多い。『14歳からの社会学』はもちろんのこと、『経営リーダーのための社会システム論』においても同様であり、いうなれば、様々な人々に語り掛けるスタイルを長年採用しているように思われる。


このことが私にとって宮台の主張に対する根本的な疑問でもあった。しかし、この疑問に答えたのも本書だった。


「むしろ非常事態になれば裏切られるのは「想定済み」だから、逆に裏切りにおびえず人を「信頼」できるようになる」


中学高校紛争を経験したことが、このような構えの根本にあるのだろう。特に党派という観念がどのような事態を招いたのか、宮台が知らないわけがない。それを乗り越えるための構えであるとするならば、宮台の議論に「革命の主体」が不在である理由に納得ができる。そこで重要になってくるのが、やはり「裏切り」や「非常事態」、それによって受ける「傷」への向かい方だ。すべて、どこかで「わかっている」のだ。そして、そういった事態に直面したとき、しっかりと向き合わなければならないのは自分だ。理論の修正でも同胞を疑うことでもない。まず傷つく、そこから始まるのだ


このことを明確に捉えることができたという意味で私は本書を宮台真司の理論を理解するための一歩のための本と位置付けたい。そうでなければ多くの人の目には彼の言動は、まるで辻斬りのように見えてしまうだろう。