【歌詞考察】『月曜日』(amazarashi)憂鬱な月曜日を生き延びたい僕らのための歌

【歌詞考察】『月曜日』(amazarashi)憂鬱な月曜日を生き延びたい僕らのための歌

月曜日が憂鬱なのは、僕らが「大人」だからかもしれない。そんな月曜日を生き延びるにはamazarashiの『月曜日』という歌が効く。学校にも会社にも行きたくない月曜日のために、この曲の魅力を歌詞に沿って紹介したい。

「体育倉庫のカビたウレタンの匂い」から始まる本曲は、リスナーを学生だった頃に引き戻す。ここでは匂いを感じている学生を仮に「私」としよう。「私」は周囲がどんどん大人になっていくことに動揺している。しかし「私」が親近感を感じているのは「子どもっぽい」存在だ。歌詞には次のようにある。「右向け右で左見て 前ならえで列に背を向け 救いなのだその幼さが 君だけは大人にならないで」と。

だが「大人にならないで」と思いを寄せる存在の「君」は「私」にとってただの友人でも、ましてや恋人でもない。そんな名前が付くような大人びた存在や関係性ではない。ただ純粋に、生きづらさを共有する者同士なのだ。「息苦しいのは ここが生きる場所ではないから 僕ら地球外生命かもね」というほど、疎外感を感じている「私」と「君」は、すべての「大人」を拒否する。それは例えば「明日があるから」と将来を憂う人たちのことであり、知っていることを知らないふりができる器用な存在だ。「明日の話はとにかく嫌い 将来の話はもっと嫌い」と歌詞は続く。「僕」は憂鬱になるのではなく、わがままを通そうとする。曲のなかで「「儚いから綺麗」とか言った 花火が永遠ならよかった」と語るのは、「儚い」ことを仕方のないものだとして受け入れることを拒否する「子ども」であるための意思表示だ。そんな意思が、月曜日が嫌いな私たちの心に染みる。僕たちはいつから「今・ここ」を将来のための道具にしてしまったのだろう。そんなことを思い出させてくれる。しんどい日の処方箋は「今・ここ」に、好奇心のすべてを注ぎ込むこと、そのようなことができる環境を整えることが必要なのだと気づかされる。そんな気づきを与えてくれることが『月曜日』の魅力なのだろう。

だが歌詞がすすむと「僕」と「君」の関係性も変化する。生きづらさを共有する仲間ではあったけど、同じ人間ではないことに気づくのだ。「確かに似た者同士だったけれど 僕ら同じ人間ではないもんな」。しかし、それで簡単に別れを決意しないところが『月曜日』をさらに魅力な曲にしている。「一番怖いのはさよなら それなら約束しよう 永遠に別れはないと」。「僕」は「別れ」を認めない。だが「永遠」というものが本当は無いことに実は気が付いている。だけど、絶対に「別れ」はないと誓う。「僕」と「君」は似た感性を持って、同じ生きづらさを共有した、心強い存在なのだ。この事実は、私を孤独にしないし、抱えた憂鬱をいつでも吹き飛ばしてくれる。だがら「別れ」はない。そんなことを暗に訴えていると私は思う。いかがだろうか。もし明日が憂鬱だったとして、その憂鬱を自分以外の多くの人も抱えている。みんながみんな「月曜日」が楽しみなわけがない。憂鬱ではないフリをしているだけなのだと思う。内心「学校行くのダリぃ」や「会社サボりたい」なんて思いながら電車やバスに乗っている。そう考えるだけで少しだけ心が軽くなるのは私だけではないと思う。『月曜日』は、残念ながら大人になってしまった私たちに、そんなことを思い出させてくれる