【あらすじと感想】本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りにいく』成瀬はなぜ愛されるのか

【あらすじと感想】本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りにいく』成瀬はなぜ愛されるのか

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」。この一文から始まるのは二〇二四年本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りにいく』だ。本論では、この小説の簡単なあらすじを紹介し、感想を交えながらなぜこの作品、もとい、主人公である「成瀬」が読者を惹きつけるのか、その理由を「地方」という点から考えていきたい。


あらすじと魅力

本作は全部で六章の構成となっており、それぞれ異なった人物が語り部となっている。一章「ありがとう西武大津店」二章「膳所から来ました」は、成瀬の友人・島崎みゆき、第三章「階段は走らない」は四十代の男性・敬太。第四章は大貫かえでという女の子で、成瀬とは同じ小中高に通っている背景をもっている。第五章「レッツゴーミシガン」では広島県の高校の生徒である西浦航一郎、最終章の「ときめき江州温度」では成瀬自身が語り部だ。ちなみにいえば、一章、二章、三章の時点で、成瀬は中学生、四章以降では高校生となっている。


とても単純化してしまえば、本作は基本的に、成績優秀だが「変わり者」である成瀬の奇天烈な行動に周囲の人間が振り回されるという話だ。例えば第二章では「島崎、わたしはお笑いの頂点を目指そうと思う」という成瀬の言葉をきっかけに、語り部である島崎とM―1に出場するというものになる。本作の面白い点は、そのための試行錯誤に妙なリアリティがあることだろう。この章では、島崎が漫才のネタを考えることになるのだが、その出来に対して「書いてみてボケが弱いと感じる」と反省する場面がある。そして同章に書かれている島崎が書いたネタは、そうなのだ。お笑いに詳しくない人でもわかる。「弱い」のだ。「中学生が、それっぽく書いてみました」というクオリティ(なので、それを知るためにもぜひ読んでほしい)。そこから島崎は成瀬のアイディアを取り入れながら、台本を作り直すなどの試行錯誤を行う。


このリアリティが、少なくとも私にとっては心地よいものだった。地方在住の、学年で一番変わっている人が、突拍子のないことをやり始める。日本全国を探せば、一年で三十組ぐらいは見つかりそうな「変わり者」とその友人が織りなす賑やかな日々。「大人」では手が届かない、その日、その時間でしか味わえない懐かしい「何か」がある。『成瀬は天下を取りにいく』はそういう小説だ。


「だからこそ」天下を取りにいく

「地方」や「郊外」を舞台にした小説について、かつては、どことなく哀愁というか衰退の悲哀を帯びる作品が散見されていた。映画作品であれば岩井俊二『リリィシュシュのすべて』、漫画では松本大洋『鉄コン筋クリート』、小説であれば佐藤友哉『世界の終わりの終わり』など、枚挙にいとまがない。このような背景として「ファスト風土」という言葉に表される「地方の画一化」という現象が存在する。つまり地方から「らしさ」や「共同体」が失われ、「マクドナルド」や「イオン」のように、どこの地方でも同じような風景が出来上がってしまうという現象の発生だ。先程挙げた物語たちも「ファスト風土」という言葉も、登場はゼロ年代だ。ゆえに、これらの作品には、共同体や独自性は滅びるけど、それでもなんとか生きていかなくてはいけないという人生の苦渋がある


一方で『成瀬は天下を取りにいく』には、「滋賀県大津市」など舞台にしつつも、そのような寂しさが微塵もない。たしかに第一章では西武大津店が閉店することになり、周辺の住民は残念がるものの、主人公の成瀬には「だからこそ」何かをやろうと、かつての「哀愁」の対象となっていた衰退を迎えてもなお、そのことを自分たちの素晴らしき思い出に昇華するパワフルさがある。地方は衰退する。不景気で。少子化で。高齢化で。そして建物は壊れるし、街の風景はどうしようもなく移り変わっていく。「だからこそ」天下を取りにいくような気概をもって、自分の人生は、生きるに値すると思わせてくれるような輝かしい一瞬を、自分たちの手で作らなくてはいけない。そんな情熱を『成瀬は天下を取りにいく』から感じた。もしも、そんな一瞬を手に入れることが出来たら、主人公・成瀬の野望「わたしは二百歳まで生きようと思っている」ように人は健やかに長生きをしたくなるのかもしれない。