【感想・考察】『キドナプキディング』戯言シリーズ最新作!新青春エンタの頂点の果て!

【感想・考察】『キドナプキディング』戯言シリーズ最新作!新青春エンタの頂点の果て!

著者の手元にある本書の帯文には「首を洗って待ってたかい?」とある。一人のファンとしてこう答えたい。「首を長くして待ってたよ」。西尾維新のデビュー作『クビキリサイクル』から始まる「戯言シリーズ」のその後を描くシリーズ最新作『キドナプキディング』。その紹介と考察を本論では行う。『キドナプキディング』の主人公は「戯言シリーズ」の主人公・戯言遣いこと「いーちゃん」とヒロインである「玖渚友」の関係を横軸、謎解きや彼らの関係性の秘密を縦軸とするミステリーだが、本書はそんな彼らの娘「玖渚盾」が主人公だ。あらすじとしては、高校生である彼女が、ひょんなことからこれまで絶縁状態だった玖渚家、その総本山「玖渚城」に連れられてしまうところから始まる。青髪碧眼の双子との出会いや玖渚家の思惑がうごめく中、起きたのは凄惨な殺人事件。盾は城からの帰還と殺人事件の謎に挑むことになる。以上が簡単なあらすじだが、本作は『戯言シリーズ』自体のオマージュやパロディともいえる箇所が多く存在する。例えば「ばいばい。さようなら。おやすみなさい」という一文。戯言シリーズの読者であれば「あのシーンだ!」とピンとくるのではないだろうか。そういった点でもファンにはたまらない一冊になっている。

「過剰さ」からの撤退

だが注意してほしいことがある。「普通のおっさんおばさんになった戯言遣いと青色サヴァンの『あの人は今!?』が読みたいのであれば、今すぐ本を閉じるのが正解だろう」というとおり、本作には「いーちゃん」も「玖渚友」も登場しない。主人公の玖渚盾自身も「成績は中の上、得意科目は特になし、苦手科目も特になし」という平凡な女の子として描かれている。そして本論の考察はここから始まる。そう、『キドナプキディング』には「過剰さ」がない。いや、局所的にはあるのだが、『戯言シリーズ』にしてみれば少ないぐらいだと思う。本論はこの点について考えていきたい。振り返ってみれば、戯言シリーズはもちろんのこと、西尾維新の作品、いや作者自身も「過剰」を好んだ。天才が複数人もあつまるという舞台設定、『めだかボックス』に見られるようなバトル漫画の能力のインフレ、そして西尾維新自身もデビュー前は(今も?)、二か月に一作というハイスピードで小説を書き上げ、メフィスト賞に応募していた。筆者自身や物語に付きまとう「過剰さ」、その背景にあるのは西尾の執筆動機だと思う。西尾維新本人を模したと思われる人物が主人公となっている小説『少女不十分』では次のような一説がある。「道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。それが、物語に込められたメッセージだった」。「過剰」であることが「天才」と形容されるのであれば良いが、一方で「普通じゃない」と言われ、社会から爪弾きにされることだってある。その人たちが少しでも面白おかしく生きていけるようにするというのが、西尾維新の執筆の根幹にあるのだろう。では、一体なぜ西尾維新は「戯言シリーズ」の正当なる続編から「過剰さ」を消し去ったのか。このことのヒントになるような挿話が本書にはある。「交通事故を絶対に起こさないテクノロジー」というものが発明されたと仮定し、本書では次の結論に至る。「そうではなく、歩行者が歩道を一切守らなくなるというのが、想定しうる最悪の未来図である」。「絶対に起こさないテクノロジー」というのが、一つの「過剰さ」の表れだとした場合、壊れていくのは人々のモラルなのだろう。この挿話はそのことを示している。いや、壊れているという感覚すら持ち合わせることすらできないのかもしれない。そんな世界で人は果たして「面白おかしく生きていくことはできる」のだろうか。私たちの周りには、いつの間にか「過剰さ」だらけになってしまった。情報、罵詈雑言、ネットメディアへの常時接続などなど。また、この「過剰さ」は、監視や支配につながりかねないものだ。例えば哲学者・千葉雅也は『現代思想入門』で次のように「過剰さ」=「関わりすぎ」に警鐘を鳴らす。「だけれど、関りばかりを言いすぎると、それによって監視や支配に転化してしまう危険性があって、それに対するバランスとして、関りすぎないことを言う必要もある」。千葉はこのことをフランスの哲学者・ドゥルーズから引き出した結論としているが、こういう視点が現代社会に必要だとも語る。『キドナプキディング』を読んだ人であれば、「監視や支配に転化」という言葉に本作との共通点を見出すことができるはずだ。人々の「過剰な」支配と監視は本書の核となっているのだから。どういうことか、というのは是非『キドナプキディング』を手に取って確かめてほしい。いずれにせよ、「過剰さ」のなかで「面白おかしく生きていくこと」へのバランス感覚、あるいはそれを欲することが、「戯言シリーズ」の最新作である本書から「過剰さ」自体を消し去ったのだと私は思う。だが、それは物語から魅力がなくなったことではないということは急いで付け加えておきたい

人生を変えた一冊、思い出にしてくれる一冊

「過剰さ」からの撤退という点について自分語りを許してもらえるのならば、私自身にも「過剰」だった時代があった。白状すれば、私は作家志望、死語だと思うけれど「ワナビー」というやつだった。特に酷かった記憶としては、講談社BOXというレーベルの新人賞に応募規定である原稿用紙三五〇枚以上の小説を毎月送りつけていたことだ。それも二年半から三年ぐらいだったと思う。その節は大変申し訳ございませんでした。いや、本当に。応募作ごとに書いてもらえるプロからの選評や、書くこと自体の楽しさに夢中だったというのは言い訳だと思う。タイムマシンがあれば当時の自分をぶん殴りに行く。いずれにせよ、そこから引導を渡され「じゃあ」ということで方向性を変え、そこで満足できる結果が得られたのは幸いだった。「過剰さ」から撤退は出来たのかな、と自分では思う。そういった変化が出来たのは、やはり「戯言シリーズ」が持っていた面白さに起因する。そのシリーズが作っていたムーブメントの影響もあった。そんなほろ苦い記憶が完全に思い出になったのだと『キドナプキディング』は思わせてくれた。人生を変える一冊も大事だけれど、変えたことを思い出にしてくれる一冊も同じぐらい大事だと思う。考察とは何も関係のない話になってしまったが、「戯言シリーズ」が青春の思い出の一冊である人には是非『キドナプキディング』も手に取ってもらいたい。本書も大切な一冊になるはずだから