【要約・考察】『現代思想入門』人生のリアリティを味わう哲学
優れた入門書は、優れた地図でもある。千葉雅也の『現代思想入門』はそのような優れた地図になる一冊だ。しかし、この地図には謎がある。この地図は一体、どういう目的で書かれたのか。仮に「現代思想を知りたいから」という読者側の答えが明白だとしても、「入門書」というジャンル自体が膨大な数であることから、この本の意義は単なる「入門」以外にもある気がしてならない。素朴に考えれば「読者の知的好奇心を満たすため」「哲学の楽しさを知ってもらうため」というものになるだろうが、いずれの答えも半分は合っており、もう半分は誤りだと私は思う。本論は『現代思想入門』の魅力であるデリダ、ドゥルーズ、フーコーの紹介の仕方を押さえておくと同時に、「目的」という謎への答えを考察したい。ただ本書を読む際は構える必要はない。『現代思想入門』は、景色を味わうドライブのようにデリダ、ドゥルーズ、フーコーという哲学者の思考が楽しめる一冊になっているのだ。そしていつの間にか、本論で語ろうとしている目的地に到着するという充実した読書体験を私たちに与えてくれることは約束できる。さて前置きが長くなったが、そろそろ本書の魅力を紹介するためのドライブへと出発しよう。
デリダとツッコミ
『現代思想入門』も面白さの一つに、スケールがどんどん大きくなるという点がある。各哲学者について説明する際、その思想が「脱構築」という武器を用いて突き崩そうとしたものも紹介する。デリダは「概念」、ドゥルーズは「存在」、フーコーは「社会」といった具合だ。そんな本書のトップバッターはデリダだ。その哲学を説明するために本書は「優柔不断なのはいけない。責任をもって決断しなければいけない。(…)大人になるというのは、決断の重さを引き受けることだ」という(おそらく)架空のツイートを例として「まず、「優柔不断vs.責任ある行動」という対立。優柔不断はマイナス、責任ある行動はプラスです。(…)まずこの発想をとった上で、ここでマイナスの側におかれているものをマイナスと捉えるのは本当に絶対だろうか? という疑問を向けるのが、脱構築の基本的発想です。デリダを学ぶと、日常生活あるいは仕事などで自分に向けられる二項対立について、この種のツッコミを入れることが可能になるのです」という形でデリダの哲学を紹介する。妙に生々しい紹介の仕方だと感じるのは私だけだろうか。千葉は、このすぐあとで「いつでもこういうツッコミを入れていたら、生活も仕事も成り立たなくな」ると言いつつも、改めて脱構築の手続きを改めて説明している。このように、どことなくポップな調子で読み進めることができるというのが、これだけでもお分かりいただけたかと思う。哲学の入門書は往々にして、対象となる哲学者の時代背景や、思想の変遷などを追うものだが、本書はそうではない。生活から始まる哲学の仕方を教えてくれるのが、本書の魅力の一つではないだろうか。
ドゥルーズと自己啓発
個人的なことを言わせてもらえれば、ドゥルーズの章が私は最も気に入っている。本書ではドゥルーズの哲学のポイントを「そもそもA、Bという同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている」あるいは「世界は差異でできている」という世界観として紹介し、このことを昨今の「自己啓発」とは真逆の方向の主張としてとらえる。「だから、自己啓発的なアドバイスには、人間にある種の決めつけを提供することで安心させるものが多いのではないでしょうか。(…)ドゥルーズ+ガタリの思想は、外から半ば強制的に与えられるモデルに身を預けるのではなく、多様な関係のなかでいろんなチャレンジをして自分で準安定状態を作り出していけ、ということだと言えるでしょう。(…)「本当の自分のあり方」を探求する必要なんてないのだ、だからいろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです」。私がドゥルーズの章が好きな理由がここにある。自己啓発というと、どうしても「再現性の低い成功談の集合」や「この本のとおりに行動しなければ損をする」というような脅しのようなものが目についてしまい、私にとっては、それがなんとなく嫌な感じがしてしまう。「いや、行動するかしないかは自分で決める」というような捻くれた意見が自分の中から湧き出てしまう。しかし、そんな捻くれた感覚を本書は肯定してくれた気がした。自己啓発ブームに違和感を覚える人には、ぜひ読んでもらいたい部分である。
フーコーと世俗
最後はフーコーだ。この哲学者について本書は「我々の多くは被支配者の立場にあるわけですが、その受け身の立場から、自分たちを支配する能動の立場を「悪いやつら」として括り、それと闘うんだという明快な構図が描けます。(…)ヒーローもののようなイメージが権力の二項対立的図式だということなのですが、フーコーはそれを揺さぶるのです」とする。では、その揺さぶりの先になにがあるのか。このことについて「フーコーは、かつてない深さで人間の多様さを論じ」ることで、「正常」と「異常」という今ではよく見受けられる区別を溶かし、別の倫理をフーコーは取り出そうとすると語る。本書の言葉でいえば「「ちょっと変わってる」とか「なんか個性的だ」というあり方を、ただそれだけで泳がせておくような倫理」がフーコーにはあるのだ。詳細は『現代思想入門』に譲るが、この倫理について、読者はどう思うだろうか。本書では「発達障害」を例に出し「風変わりな子」から「コミュニケーションの障害がある」と変遷したことで救われる心がある一方、この問題視自体について「もっと多様にバラバラに生きて構わない」ということを前提にすべきではないかと提案する。確かに「なくて七癖」という言葉があるように、人間には少なからず変わっている部分があるはずだ。私たちの生活は、そんな幾つもの「変わっている」と折り合いをつけながら送っていくものだと思う。そこに見知らぬ人との出会いや言葉を交わすことの楽しさがある。さらにいえば「正常であれ」という圧力が強ければ強いほど、そうでないとみなされた人たちへの風当たりは強くなる。昨今の芸能人の不倫関係のニュースやSNSの炎上などは、そういったのが如実に表れている気がしてならない。「正しい」が人の心を壊してしまうのであれば、問題視すべきは「正しい」以外を認めない狭量さであるべきだ。私たちは、いつでも清廉潔白であることはできない。ちょっとの親切や、わずかばかりのズル、健康に悪いとわかっていてもお酒を飲むし、人によってはタバコも吸うだろう。たとえ「正しくない」とわかっていても、だ。私たちの生活は、そういった「ちょっと」と「わずか」が入り混じった灰色の空間だ。こういうのを「世俗的」というのであれば、本書がフーコーの章で強調するものと同じだと思う。「要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康に気を遣うには遣って、そのうえで「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です」と本書は語っている。
灰色の終わり
では、ここまできたところで「目的」の話に移ろう。そのために一つだけ、本書の気になっている点を挙げておきたい。それは文体である。本書はですます調であり、かつ丁寧な説明をしてくれるのだが、時折「だけれど」や「ですから」、あるいは「個人的な話ですみません」などという言葉が挟まれている。だが、ここに違和感がある。「だけれど」は「しかし」、「ですから」は「したがって」と固めに言い換えた方が全体の雰囲気に合っている気がしてならない。「すみません」などと謝る必要もないと感じている。一方で、この表現には既視感がある。それは例えば、行きつけの飲み屋での場面だ。初対面のお客と話すときは、お互いに丁寧な言葉遣いだが、これが二回、三回と会ってくるとどんどん砕けてくる。丁寧な言葉のなかに「~っすよ」や「でも」「だって」というカジュアルな表現が増えてくる。丁寧を白、親密を黒と表現するのであれば、それらの間にある独特な灰色の言葉のリズム。それに近しいものを私は本書から感じた。このことを作者は狙っていたのだろうか。奇しくも、本書の冒頭では「能動性と受動性が押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある」というメッセージがある。そうであるならば、本書の目的は哲学を通じて「人生のリアリティ」を味わう感受性を読者に芽吹かせることではないだろうかと思うのだ。事実、この本には「生活」やそれに類する言葉が見受けられる。挙げられている例も世俗的だ。もちろん実際には哲学へ「入門してもらう」というものが表立ったテーマなのだから、ここで語られていることは裏テーマ、もしくは単に私自身の穿った見方なのかもしれない。だが、一読者として言えば、そういった「世俗的」であることの楽しさを味わえる一冊だったということは言っておきたい。人生を豊かにする名著。この表現は決して大げさではないと私は思う。