【要約・考察】『リバーズ・エッヂ』を「教訓」として読む
「平坦な戦場で僕らが生き延びる」いくつかの方法について
振り返ってみれば、この時期から、人々の価値観とか社会の仕組みとかが少しずつ狂い始めていったのかもしれない。岡崎京子の漫画『リバーズ・エッジ』はそんなことを思わせてくれる。主人公の女子高生・若草ハルナが元彼氏の観音崎にいじめられている山田を助けたことをきっかけに、河原に放置された死体を偶然見つけ、その秘密を共有するというのが物語の大枠だ。94年に刊行された本作品には、上述した時代の「狂い始め」が溢れかえっている。その一部を本論では紹介したい。
現代からみれば『リバーズ・エッジ』のなかで描かれていることにはすべて名前がついている。「援助交際」「ひきこもり」「家庭崩壊」など。けれど90年代には、それは「問題」ではなかった。「なかったこと」か「個人の資質」ということで処理されていたと思う。綺麗に区分けがされていなかったこともあり、様々な「変なこと」が日常生活のなかに溶け込んでいた。誰もが手探りだった。そういう時代だった。この漫画のなかにはたびたび「平坦な戦場」という言葉が登場する。上述したような状況を的確に形容したものだと私は思う。例えば、主人公の元カレ・観音寺は小山ルミからこのように言われる。「お父さんとお母さんだって…デキの悪いあんたなんてほったらかしでしょ?」「全然だれもあんたのことなんか好きじゃないじゃない」。その小山も援助交際を行っていたりする。そして、そのような出来事の積み重ねの先が『リバーズ・エッジ』には描かれている。「本当にそうだ あたし達はなにかを隠すためにお喋りをしてた」と若草は回想する。誰もが「なにかが変だ」とわかっていても、「生きている」ことの幸せに期待が出来なくなっても、それを誤魔化した。だからこそ若草も山田も死体を見つけたことを秘密にしなければならなかった。山田は言う。「自分が生きてるのか死んでるのかいつもわからないでいるけど」「この死体をみると勇気が出るんだ」と。この「勇気」の理由は、「死体」というものが「生きること」からの出口のように山田には映るからだと私は思う。この読解の正確性はぜひ『リバーズ・エッジ』を読んだ読者自身に問いかけてみたい。
今更90年代のことを書いていても仕方ないのかもしれない。でも、それでもこの漫画は紹介したかった。「今までどおり」が通じなくなったのが「戦場」であり、「平坦」というのが、私たちの生活のことを指しているのであれば私自身、「平坦な戦場」という形容は現代社会でも通じるものがあると思っているからだ。そして、この漫画からは今でも教えてもらえることがあると思う。「平坦な戦場で僕らが生き延びること」の心構え、やり過ごし方、備え。そういうものを私は今でもこの漫画から教わっている。