【あらすじ・考察】『ハサミ男』平成の産声としての「ハサミ男」
「平成」という時代を1文字で表すとすれば「狂」ではないだろうか。震災や少年少女による殺人、経済の不安定化によるライフステージの崩壊と狂騒。文化も制度も人々の精神も「狂」の文字がチラついた。そのような時代の空気に対して最も鋭敏に反応したのがミステリーであり、殊能将之『ハサミ男』だろう。1999年、第13回メフィスト賞を受賞したこの作品は、「平成」ミステリーの方向性を象徴したと同時に、現代においても考えなければならない社会問題の萌芽がある。 ここでは『ハサミ男』をあらすじを紹介するとともに、この「象徴」と「萌芽」について(ネタバレなしの)考察を加えていきたい。
『ハサミ男』こんな人におすすめ
- サイコパスを主人公にしたスリリングな物語を読みたい人
- ミステリーマニアになりたい人
- 絶対に騙されないという自信がある人
内容・あらすじ
この作品は、一人の人間が自殺を試みるところから始まる。
「棚を順に見ていきながら、しばらく考えたすえに、クレゾール石鹸液を買うことにした。もちろん、自殺するためだ」
その人は通称「ハサミ男」と呼ばれ、美少女を殺害し、ハサミを首に突き立てるという猟奇的殺人犯だ。3人目の標的を決め、入念に準備する「ハサミ男」だが、思わぬ事態に巻き込まれる。標的にしていた少女が、何者かによって殺害されてしまうのだ。そして手口は「ハサミ男」を模したものだった。なぜ、少女は殺されたのか。なぜ、手段が真似されてしまったのか。「ハサミ男」はそれらを解き明かすために調査を始める。
一方で、そんな事態に警察も、沈静化していた「ハサミ男」の捜査を再燃させる。目黒西署の刑事・磯部龍彦は動員された刑事たちの1人だ。彼はひょんなことから犯罪心理分析官・堀之内の手伝いをすることになってしまう。2人は刑事仲間の力を借りつつ、「ハサミ男」の正体に迫ろうとする。
そのようななかで被害者の少女・樽宮由紀子の不穏な評判を知ったのは「ハサミ男」だった。友人からは「由紀子は男好きで、インランで、誰とでも寝る子でした」と言われ、教師からは「由紀子は愛情に飢えてたんだ」と評される。そして母親からは「あたしはあたしなりにあの子を愛していた。でも、あの子にはそれがわからなかったみたい。いつも冷たい目をして、あたしを見つめてたわ」と言わしめる。
被害者・由紀子の友人関係から「犯人」に近づいていく「ハサミ男」だったが、警察たちは心理分析官の堀之内と協働し「年齢は二十代後半から三十代前半。おそらく肥満タイプ。独身で、都内に一人暮らし」「孤独を好む性格」という点まで犯人像を絞りつつあった。「犯人」を突き止めるのは「ハサミ男」か警察か。
『ハサミ男』考察 -平成の産声としての「ハサミ男」-
「ハサミ男」は孤独だ。「年齢は二十代後半から三十代前半。おそらく肥満タイプ。独身で都内に独り暮らし」と作中では形容されている。「ハサミ男」と思わしき人物は他にも「気の弱そうな、か細い声。白豚のように醜く太った体つき。薄くなりかけた髪の毛。たぶん量販店のバーゲンか何かで買ったに違いない、安物のダウン・ジャケット」と評されているが、「孤独」「貧困」「非モテ」など、2020年代において注目されているキーワードの萌芽が描写されていると言えるだろう。
しかし、思うに「平成」という時代は、このような問題を「社会」ではなく「自意識」の方で吸収しようとした。『ハサミ男』も例外ではない。詳細は本書に譲るが、これらの外見的特徴はあくまで「記号」としか用いられていない。本書は「ハサミ男」の自意識が作品の半分を占める。言い換えれば「ハサミ男」という存在の一人称視点で語られていることが、やはり「社会」ではなく「自意識」に重きを置いていた「平成」を象徴しているのではないだろうか。服装についても「あなた、いつもそんな格好なの」と問われても「変かな」と返す程度には、自身の外見には無頓着だ。
決定的なのは例えば次の文章だろう。「みんなは、あなたのことを本当に理解しているのかしら。きみの言うとおり、それぞれに正しく理解しているんだろう」。これらは「ハサミ男」の独白だ。読んでわかるとおり、「ハサミ男」は他者ーー「社会」からの理解を求めていない。
「狂気」を内面から描く、「社会」から隔絶した「自意識」の洪水。それ以外が全て「記号」であるという時代が「平成」の一側面であった。
実際、『ハサミ男』以後にメフィスト賞を受賞したなかで大きなムーブメントを巻き起こした佐藤友哉の「鏡家サーガ」、西尾維新の「戯言シリーズ」、出自は異なるが『NHKへようこそ!』などがある滝本竜彦の著作も大なり小なり「社会」から距離をおいた「自意識」を描いた作品だったはずだ。このように後続の作品を並べてみればやはり『ハサミ男』は、「平成」という時代の産声だったのではないだろうか、と思わずにはいられない。
しかし、それだけでは時代の象徴だけであり「古典」とまで言えるのか。『ハサミ男』が「古典」とまで言えるのは、その完成度の高さのためだということは、一読者として改めて強調しておきたい。「時代」の考察に耐えうる鋭敏な感性を詰め込みつつも、ミステリーとしての完成度は今でも多くの読者の度肝を抜くと確信できるほどの抜群の高さを誇る。こんな稀有な作品に対して「読まない」と言う選択肢はありえない。断言しよう。あなたはきっと騙される。