【歌詞考察】いよわ feat.星界『異星にいこうね』

【歌詞考察】いよわ feat.星界『異星にいこうね』

誰も気づいていない「君」の正体

いよわ feat. 星界『異星にいこうね』は、ポップな曲調と次第に不気味感を増す歌詞が魅力の楽曲であり、様々な人にカバーされている。一方で、ここでいう「不気味感を増す歌詞」については、ネットに様々な考察が転がっている。それらを総合すると、本曲は異星人の恋の歌というのが一般的な理解だと思われる。しかし、本当にそうだろうか。歌詞から考えるにそう判断するのは早計のように感じた。また本曲の結末は、バットエンドであるという考えにも同意しにくい部分がある。これは、様々な考察が暗に前提としている「君」の安直な反応に起因するものだ。

本論では、上述の内容に疑義を挟み、歌詞の内容を読み解いていくことで、誰も触れていない「君」の正体について迫っていこうと思う

確認として、本曲が「異星人の恋の歌である」という前提の理解から始めていこう。たしかに「キャトルミューティレーションのように恋をした」や「実地調査14日目」など、歌い手(ここでは便宜上「私」としよう)は異星人のような印象を聞き手に与える。

しかし、である。

歌詞には「UFOにのって異星にいこうね」とある。ここが妙だ。UFOという名称は「Unidentified Flying Object」の略であり、あくまで「地球人」から「Unidentified」=「特定できない」と名付けられたにすぎない。「私」が異星人であるならば、わざわざそのように呼称するだろうか(さしずめ「母艦」や「宇宙船」ではないだろうか)。

一方で、「私」という存在を、まるで異星人のように語る曲は多く存在する。例としてはキリンジ『エイリアンズ』やamazarashi『月曜日』だ。これらの楽曲の「エイリアン」や「宇宙人」は「社会の中で居場所や寄る辺のない者たち」の比喩表現である。

したがって『異星にいこうね』の「私」も、このような比喩表現ではないかと思うのだ。つまり「私」は異星人そのものではなく、社会から疎外された者や現実で居場所がない(と感じている)者であるというのが本論の主張である。疎外されているがゆえに、人々の普通の生活は、「私」にとって調査のような様相を呈している。そのため「実地調査」などという言葉が用いられるのだ。

もちろん「MVに書かれている女の子には角が生えてる。異星人そのものではないか」という指摘もあるだろう。しかし、その姿もまた比喩である可能性も捨てきれない。MVが「私」の現実での姿だとすれば、彼女の左手を掴もうとする人は、かなり勇気のある人間ということになる。さらにいえば、画面中央には宙に浮かんでいる車が描かれている。MVの絵を、額縁どおり受け止めるのは危険だろう。「私」の心象風景、イメージ図程度に捉えておくのが無難ではないだろうか。

さて、歌詞の解釈にもどろう。次は「君」の正体についてだ。

『異星にいこうね』のクライマックスは次のとおり。

「なんでそんな怖い目でみるの 分かってくれなくて悲しいな もう知らないわ」

これに対する一般的な解釈は「君」から「怖い目で見」られたので「私」は「君」を見捨てたり、関心を無くすといった具合だ。そのため「本曲の結末は悲恋である」というのが相場だろう。特に「なんでそんな怖い目でみるの」という歌詞が、上述の説に説得力を持たせる。

しかし、肝心なのは「怖い目でみる」という行動の真意だ。例えば人は、可愛いと思った対象をきつく抱きしめるなど皮相的な攻撃的行動をとったりすることがある。専門用語では、これを「キュートアグレッション」と呼ぶ。そう、この言葉は歌詞にも登場する。「キュートアグレッションが囁くの」と。

想像力を膨らませれば、「君」の「怖い目でみる」という行為も「キュートアグレッション」の一つではないかと思うことだって出来るはずだ。好きな人を前にして緊張で顔が強張るや真顔でじっと見つめてしまう反応を、ここでは「怖い目でみる」と表現しているのではないだろうか。これらが冒頭で「「君」の安直な反応」としたことに否を示した理由だ。

ここで曲は終わっている。この二人の今後は視聴者の想像に委ねられているわけだ。

もちろん、本文で「一般的な理解」とした異星人の恋の歌と理解することもできる。だが、この曲が長く愛され、多くのカバーが存在する理由は「私」の心情に、私たちの心が大なり小なり呼応してしまう部分があるからではないだろうか。つまりそれは、「私」が異星人ではなく、やはり一人の地球人として私たちと同じ「心」を有しているからだと思わずにはいられない