【要約・考察】『宮本常一 歴史は庶民がつくる』「庶民」の発見と警告の一冊

「進歩とは何か、発展とは何か、進歩という名のものと、私たちはじつにたくさんのものを切り捨ててきた」。『宮本常一 歴史は庶民がつくる』にはそんな一文がある。本書は民俗学者・宮本常一の思想を、時代背景や彼の仕事からたどっていく本だ。宮本は、戦後まもなくの「村」や「集落」を渡り歩き、そこに生きる人々の文化や生活などの「生の声」を生活史として収集、編纂していた民俗学者だが、私としては彼の仕事を紹介している本書は、「村」や「風習」「集落」のような言葉に、どこか保守的なイメージを抱く人に読んでほしいと思う。なぜか。宮本の仕事とは私たちが持つそんな「庶民」たちのイメージの破壊と再発見だからだ。では、この仕事の何が重要なのか。そして、どうして「進歩とは何か」という問題提起につながるのか。本論では『宮本常一』の要約と共に、そんな疑問の答えを述べていきたいと思う。
イメージへの挑戦
本書の構成を大まかに述べる。第一章は宮本の経歴と仕事の特徴についての記述。そして二章は「庶民」、三章は「世間」、四章は「民俗」という風に着眼点を変えつつ、宮本民俗学の深堀が行われる。五章と六章は、宮本の仕事の総括と彼の思想の意義の再発見となっている。
繰り返しになるが、私たちのなかで「民俗」や「風習」、あるいは「共同体」という言葉に対して「保守的」「閉鎖的」というイメージを抱いている人は決して少なくないだろう。もちろん私自身もそうだ。だが、それは偏見だったのだと本書は気づかせてくれる。それは例えば「世間師」といわれる人の存在がある。彼らの特徴について本書はこう述べる。「「世間師」は共同体の外側にあり、多様な価値で成立している「世間」を渡り歩く存在だ。共同体の外側にある価値、文化や産業や生活といったものを見て歩き、そうした価値を自らの共同体に刺激として持ち帰る。共同体の漸進的な発見は、世間師によってもたらされてきたのである」。このような多様な価値観、換言すれば「公共的」な場所へのアクセスが「世間師」によってなされることで、共同体も変化していく。そのような情報の往来と変化の連続のなかで蓄積されていったのが「庶民」の生活だった。「庶民の歴史も、共同体と公共性の絶え間ない往来から生まれてきたのである」。
ほかにも興味深い箇所がある。例えば、私たちには、村や集落で行われる「話し合い」が強いリーダーのもとで強権的に進められてしまうイメージが、簡単に想像できるのではないだろうか。しかし実態はそうではないらしい。「はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへ結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう」というルールがあったと宮本の仕事は紹介している。要するに、トップダウンで様々なことが決まるのではなく、徹底的に話し合う「熟議」とでもいうべきスタイルも存在していたのだ。これだけでも「村」や「集落」といものへのイメージが覆されたのではないだろうか。詳細は『宮本常一 歴史は庶民がつくる』に譲り、本論では冒頭で述べたとおり、なぜ宮本の仕事が「進歩」という問題につながるのかを考察する。
「進歩」の残酷さ
「社会」を良くしようという発想、あるいは「これからは~な時代」という言説は、「私たち」と「あいつら」という考えを生んでしまう。具体的には「社会」を良くしようとしている「私たち」と、それを阻む「あいつら」という分類、「~な時代」を先取りしている「私たち」、その変化に気づかない「あいつら」という具合だ。私たちいとっても身近なものであるはずだ。知らず知らずのうちに、そんな「進歩」と「後進」、「改良」と「対抗勢力」のような区分をしてしまっていると思う。それが本論の冒頭で述べた「村」や「集落」に対するイメージだ。昔は貧しく、閉鎖的であったが、現代は豊かであり、開放的な時代だったという区分の産物だろう。
だが、その考えは時として、「進歩」しており「生産的」な「私たち」が「後進」で「非生産的」な「あいつら」を矯正してやるという暴力的な考えの種となる。そういった思考に「いや、そうじゃないんだ」、「もっとよく知ることが大事なんだ」と異議することが、本書が、宮本の仕事のなかに見出した重要なポイントなのだろう。「公共性」という言葉が、本書では繰り返し用いられている。それは、現代を生きる私たちが「過去」には存在しなかったものとして、「過去」を「後進」とする根拠の一つとなっているものだろう。しかし「公共性」は存在した。それを証明することによって、本書は私たちに問うのだ。「進歩とは何か」と。変化の激しい現代において、「進歩」という言葉は将来への明るさを帯びたものとなっている。しかし、その無邪気さが時として取り返しのつかない失敗を招くことがある。本書は、そのことへの警告の書だと私は思う。