【要約・考察】『日本人の法意識』ブラック企業の温床? 日本にとって「法」とは何か。

【要約・考察】『日本人の法意識』ブラック企業の温床? 日本にとって「法」とは何か。

過労死やパワハラ・セクハラ、様々な偽装などのニュースを見るにつけ、最悪の事態になるまでどうして「法律」は対処できないのかと思わずにはいられない。この問題について、日本人の「法意識」という点から回答を導きだせるのが、法社会学の古典にして名著、川島武宣『日本人の法意識』だ。本論では、この本の簡単な要約と、上述した問題への解答となりうる箇所について紹介したいと思う。


『日本人の法意識』構成と要約

本書の構成は明確だ。第一章は問題で問題提起、第二章は「権利および法律についての意識」、第三章は「所有権についての意識」、第四章は「契約についての法意識」、第五章が「民事訴訟の法意識」となっている。


ところで本論の読者は、日本における「法」が諸外国と比べてズレていることをご存じだろうか。本書の第一章で提起される問題も、この点から出発する。「西ヨーロッパの先進資本主義国家ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活との間にはおおきなずれがあった」。言い換えれば「伝統的な社会秩序とは異質的な内容をもつ法律を、外国——特に、先進資本主義社会——から継受した場合に、それらの法律が果たす社会統制の機能は何か」。考えてみれば、ある種、当然のことだ。日本は、明治時代に欧米列強に並び立つようにと法制度を整えていった。しかし、この「法制度」はもともと欧米の社会秩序を前提としている。そんな前提を欠いた「法制」が、果たしてどのような意味をもつのか。これが本書の全体を貫く問題である。


さて、日本においては「権利を主張するなら義務を果たせ」と頻繁にいわれるように「権利」を行使するというのが、どこか「自分勝手」というニュアンスを帯びてしまうのは気のせいではないだろう。このことについて、二章の「権利および法律についての意識」の指摘は興味深い。著者の川島は福沢諭吉の『通俗民権論』をひき、次のように述べる。少々長くなるが引用したい。「明治期の近代の諸法典、特に民法は、権利を単位として構成され、法律家は権利を焦点として法律問題を処理した。だが、人が自分の権利を擁護することは、西洋では、正しいこととして是認されるのに、日本では、自己中心主義的な・平和をみだす・不当に政治権力の救済を求める・行為として非難されるのである」。この西洋と日本の権利意識に対するズレへの詳細は本書に譲るべきだろう。


第三章は「所有権」に関することだが、ここでは同章に書かれている「日本人の法意識」を記載するにとどめたい。「ところで、さきに述べたように、日本の伝来的な権利意識のもっとも基本的な特色は、その内容の不確定性・不定量性ということ、および、それと関連しているところの・権利をめぐる規範と事実の分裂・対立が希薄であるということ」。ここでいう「内容の不確定性・不定量性」については、社会人であれば身に覚えるあることだと思う。その例が「総合職」「一般職」という区分けだ。欧米の「ジョブ型雇用」と比較した場合、職務内容の明記がないというのは、非常に日本的だといえるだろう(日本版「ジョブ型雇用」は岩波新書『ジョブ型雇用社会とは何か』が詳しい)。


このような曖昧さの指摘は第四章「契約についての法意識」にも引き継がれる。「わが国の多くの契約に見られるところの、「将来本契約に生ずる権利義務につき当事者間に紛争を生じたときは、誠意をもって協議するものとする」(…)というような文章で表現される条項が、それである」。ここで述べられていることは、紛争が生じた場合の対処について西欧の契約書では細かく記載があるのに対し、日本においては「誠意」や「協議によって円満に解決する」という記載に留まっているという違いだ。このことについての指摘も興味深い。「だから、債務の履行期日のごときも厳格なものとは考えず、「一日や二日ぐらいおくれてもいいじゃないか」というように考え、一日や二日の遅延に対し責任を追及する債権者は、因業な或いは融通のきかぬ人間と思われがちである」。多少、このような「いいじゃないか」という精神は薄らいでいるとはいえ、現代社会にも残存する意識だと思うのは私だけだろうか


ブラック企業の温床? 第五章「民市訴訟の法意識」について

早速ではあるが、本章において紹介したい箇所がある。とある企業の車を陸送している運転手が「前方を走っている自動車との間隔をおいていなかったので、路傍にトラックが駐車していることに気が付いた時はすでにおそく、それに追突し、その結果、助手台に乗っていた助手が死亡した」という事故に関する記述だ。この事故では、志望した運転助手の母親がトラック運送をうけおっている会社に損害賠償を求めた。この事件は運転手も助手もほぼ徹夜状態であったにも関わらず、あくまで事故は「運転手が前者との間に必要な間隔をおかないで走っていたから」だとし、判決としては損害額の減少にまで至る。この事件について著者は次のように述べるのだ。「それは結局、そのような無理な労働条件を強いていた傭主の責任に帰すべきものであるのに、そのような労働条件のもとにおいて仮睡状態にあった助手の過失があるというのは、はなはだしく無理である。このような事情があるにもかかわらず、裁判所が運転助手に過失があるとして損害賠償額を減らしたのは、被告一方のみに責任があると断定することに対する一種の心理的抑制があったからだ、といか私には考えられないのであり、結局それは「喧嘩両成敗」——争う者の一方だけを黒と言いたくない――という法意識によるものではないか、と推測されるのである」。もちろん、この主張の背景には本書で積み重ねてきた議論がある。この箇所だけ読んで、単なる「推測」と一蹴するのは早計だ。ぜひとも本書を手に取ってもらいたい。


とはいえ、先の主張だけでも、私としてはかなりの説得力をもっていると感じられる。パワハラが「教育」、セクハラが「コミュニケーション」と言い換えられてしまうこと、これらがまかり通ってしまうことを、私たちの多くはすでに知っている。その背景には、「一方だけを黒と言いたくない」という意識があるのではないだろうか。もちろんこのことは、大人の世界だけの話ではない。イジメも「遊び」と言われ「イジめられる方にも原因がある」という言説も、この例の一つと言っていいだろう。これらのことは「裁判」だけの話ではない。私たち自身の「事件」に向けるまなざしにも通底する。そう、問題は「法」の機能だけではない。私たちの「意識」の問題でもあるのだ。本書は、このことがどれほど厄介な事態か知ることができる。そして逆にいえば「意識」を徐々に変えていくことが「厄介な事態」を解消するのに、どれほど有効かがわかるはずだ。一九六七年に出版されたにも関わらず、現代でも説得力をもつ本書をぜひ多くの人に読んでもらいたい。


※※当サイトでは「ハラスメント」に関する事例をまとめ、その対処法を示す本『職場を腐らせる人たち』の書評も公開している。ぜひ、そちらものぞいてほしい。※※