【要約・考察】「客観的」は本当に良いことなのか?『客観性の落とし穴』

【要約・考察】「客観的」は本当に良いことなのか?

『客観性の落とし穴』(村上靖彦/ちくまプリマ―新書)について

自分の悩みを相談したとき「そんなの、みんな同じだよ」という回答にモヤモヤを抱いてしまうのは私だけだろうか。適当に頷くものの、内心では「いや「みんな」なんてどうでもいい。苦しいのは、この「私」なんだ」と毒づいてしまう。この「みんな同じ」という回答は「客観的にみて、君の悩みは「悩み」とは言えない」と言われている気分になるのだ。だが昨今では「客観」が万能の道具のように使われている気がする。
しかし、「客観」を私たちはどこまで信頼していいのだろうか。『客観性の落とし穴』は、そんな「客観万能主義」に一石を投じ、その価値を改めて問い直す。本論は『客観性の落とし穴』でぜひ注目してほしい「「客観」が取りこぼすもの」を紹介したい。

本書は冒頭で「働く意思がない人を税金で救済するのはおかしい」という学生のコメントについて「たしかに苦労している私たちが払った税金で「働く意思がない人」を助けるのは腹立たしいかもしれない。でも、もしかすると、「働く意思をもたない」人にはなにかの事情があるかもしれない」とし「気になるのは、彼らが統治者の視点に立って語っていることである。国事を決定する権力の視点から「善悪」を判断する」と述べる。この話と似たようなことはSNSでも見受けられる。不祥事に対し、何かにせかされるように「善悪」を判断している光景は決して珍しいものではない。だがこの本は「一人の市民なのだから、自らの生活の実感から、あるいは近くにいる家族や友人の視点から社会課題を考えることができるのではないだろうか」と提案する。


この提案に私は同意すると同時に、一つ思い出すことがある。本サイトでも紹介した『現代社会はどこに向かうか』にある「秋葉原通り魔事件」の分析だ。2008年に発生したこの事件は、加害者がトラックで交差点に突っ込み、降車したのち通行人を次々に殺傷したという凄惨な出来事だ。この事件について当時の世論は概ね二つに割れていたと記憶している。一つは犯人への刑罰を求める声。もう一つは社会制度の改善であり、犯人が非正規雇用者だったことがその声の背景にある。なるほど、両方とも正しいと私は思う。一方で『現代社会はどこに向かうか』は犯人が現場へ行くまでの間、携帯で自身が行おうとしていることを発信し続けたことについて「「ヤメロ!」とも「バカヤロー!」とも言ってくれる人はいない」とし、そして「無差別殺傷が目的ならば、トラックでそのままひきまわした方が効率的であろうが、ある時点でわざわざ降りて、用意した刃物で一人一人追い回して」いると分析した。そして「どんなにリアリティに飢えていたことか」と続ける。この「リアリティ」こそ「たどたどしい語りの背景にある、生きている実感」であり「客観」が取りこぼすものなのだと私は思う。統治者ではなく市民として、第三者ではなく隣人として考えるべきことがあるのだ。
また、私たち自身はどうだろうか。家族や友人の良くない選択に対し「ヤメロ!」と声を大にできるだろうか。あるいはそう言ってくれる人はいるだろうか。そういう問いも本書は発しているのだと思わずにはいられない。

もちろん統計などの客観的な数値が不要なわけではない。制度を改良する際には、その影響度からして、データでの現状把握が必要になることは間違いない。しかし、それでも「今・ここ」の判断が重要になってくる場面では「主観」は、この上なく力強いものだと思う。唐突になって恐縮だが、この力強さについて『君が飛び降りるのならば』というボカロ曲を紹介したい。この曲は友人の「とある行動」を止めようとする曲なのだが、その止め方が「説得」ではないのだ。物理的に制止するわけでもなく、ただ「主観」の力強さで訴えかけるのだ。気になった方は是非とも聞いてほしい。そして聞き終わったら、本書を手に取ってほしいと思う。語られている内容についてきっと腹落ちすることができるだろう。もちろん、私自身としてはとにかく本書は読んでほしいと思う。「だからと言ってたどたどしい語りの背景にある、生きている実感が無価値なわけではない」ということで紹介されている事例の生々しさに対し「客観」をとにかく重視することの危うさ、一人ひとりの人生を尊重することで見えてくる希望を知ることができるのだから