【要約・考察】『私とは何か「個人」から「分人」へ』 「私」の生き方の処方箋
「本当の自分」を探したことはあるだろうか。思春期の専売特許と思われていたが、今では「大人」も「本当の自分」を探しているはずだ。適切なキャリアや自己啓発書を読むとき、新しい職場を探すとき、そこには「本当の自分」が暗に想定されている。小説家・平野啓一郎の本『私とは何か「個人」から「分人」へ』は、そのような考えに警鐘を鳴らす。本論では『私とは何か』の要約と、ここで紹介されている「分人」という概念が、本書が発売されて十年以上が経過している今、どのような困難に晒されているのか考察していきたいと思う。
要約 「分人」とは何か
本書を紹介するうえで押さえておかなくてはならないのが「分人」という概念だ。これは平野のオリジナルの概念であり、本書は「本当の私」を想定する生き方の苦しさと、「分人」という考えによる解消を提案する。
では「分人」とは何か。平野は語る。「不可分と思われる「個人」を分けて、その下に更に小さな単位を考える。そのために、本書では「分人」(dividual)という造語を導入した。「分けられる」という意味だ」。イメージとしては「一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これら分人の集合体」であり、大事なことは「自我や「本当の自分」といった中心は存在しない。しかし、その時々に大きな比率を占めている分人はある」という点だ。いかがだろう。「分人」のイメージを掴むことができただろうか。
では本書の構成・要約に移ろう。この本は五章で構成されている。第一章では平野自身の人生や著作を振り返りながら「本当の自分」を想定することの困難さを検討する。第二章は「分人とは何か」という題名のとおり、前述の困難さを乗り越えるために「分人」という概念の発案、検討を行う。第三章以降は、いうなれば実践編ということになる。第三章では「自分」と「他者」の関係を「分人」という観点から見つめなおす。第四章は、「愛すること」や「死ぬこと」という人間の心の最も深いところに焦点を置き、「分人」というが決して軽佻浮薄なものではないこと、「分人」と誰かを「愛すること」は両立できることを指し示す。そして最後の第五章は「分人」の今後の展望が語られている。
本書のタイトルにもある「処方箋」として注目すべき点は上述した「実践編」、第三章以降の考察だろう。例えば次のような文章がある。「不幸な分人を抱え込んでいる時には、一種のリセット願望が芽生えてくる。しかし、この時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。誤って個人そのものを消したい、生きるのを止めたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる」。そのうえで「重要なのは、常に自分の分人全体のバランスを見ていることだ」と彼は言うのだ。 このように「分人」という考えは、「私」による「私」の扱いについて、丁寧である必要を訴えている。また「分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、ネガティブな分人は、半分は相手のせいなのである」という言葉がある。この部分だけでも「本当の自分」という単一なものを想定することの危険さも伝えることができると思う。そういったものを想定すればするほど、不幸な目にあったときの責任について、やもすれば自分の責任として考えてしまうからだ。しかし、そうではない。そうなってしまうのは、あくまで「分人」のせいであり、それは「私」の責任でもあり、環境や相手の責任でもある。本書はそのことを力説しているのだ。
もう一つだけ紹介させてほしい。「分人」は誰かを愛することができるのか、という点についてだ。平野は「あなたが男性で、二人の女性がいるとする」としたうえで、一人は一緒にいてあまり楽しくない、話が面白くない人、もう一人が一緒にいて楽しく、相手の笑顔が自分に自信を与えてくれるような存在だと仮定する。「どっちと、またデートしたいと思うだろうか? 言うまでもなく後者だろう。前者の女性といる時のあなたの分人は、冴えない。生きていてあまり面白くない分人だ。他方、後者の分人は、生き心地が良い、楽しい分人だ」、「あなたは、後者の彼女の存在によって、自分を愛することが出来る。結局、他者経由の自己愛なのかと思われるかもしれないが、それはそんなに寂しいことなのだろうか」。そして、次のように言う。「愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ」。 詳細は本書に譲るが、「分人」という観点からみた「愛すること」に一切の無理がない、ことはわかっていただけるのではないかと思う。自分の「分人」を愛することができること、それを大事にしたいと思うこと。「本当の自分」などを想定せずとも、暖かな人間関係を紡げる可能性が、ここで示されている。
十年後の「分人」たちへ
ところで本書が発売されたのは二〇一二年であり、すでに十年以上が経過している。平野の「分人」という考えは今でも通じるのだろうか。たしかに冒頭でも書いたとおり、私たちは至るところで「本当の自分」を想定することが強いられている。「個性」や「自分らしさ」の賞賛は留まることを知らない。そういった状況から考えても「分人」は今でも有効な考えだろう。 しかし、この「分人」という考えの前提には、「本当の私」を仮想敵としている点からして、「私」という存在への意識、「私」であることの「苦しさ」や「喜び」が存在している。では、この「私」そのものへの意識が希薄化しているとすればどうだろうか。 例えば哲学者の岩内章太郎は次のように語る。「ポスト・トゥルースの世界観の下、サイバースペースでは、それぞれの<私>が<私>を自由に演出し、<私>はそのイメージを介して果てしなくつながっていく。しかし、<私>にコントロールしきれないつながりが、途轍もない疲労感を生んでいる。そうして、<私>の存在と<私>が取り結ぶ関係は不安定になっている」。『私とは何か』の言葉を使うならば、「さまざまな分人をうまくコントロールできなくなると、<私>は自分を見失い、それで異様に疲れてくる」という現状が私たちには突きつけられているのだ。この岩内の主張については『<私>を取り戻す哲学』に譲りたい。このサイトにも簡単ではあるが紹介した文章を載せている。
とはいえ、SNSなどにより、過剰に「分人」が生成されること、その結果として「分人」の基礎となる「「私」を生きる感覚」が失われつつあることは、注目すべき現代の傾向だと私は思う。愛したいのか、愛されたいのか、かっこよくありたいのか、可愛くありたいのか。それは、どこの、誰に向けてなのだろう。誰のための「分人」なのか。単なる流行なのか、本当に自分の時間を割いてまで取り組むべきことなのか。そういった問いを欠いている以上、生きたいと思う「分人」に出会えるのだろうか。SNSに跋扈する自己啓発や「個性」という言葉によって生み出された「分人」は生きるに値するのだろうか。その判断となる価値基準を「私」は有しているのだろうか。
本書をただのライフハックとして読むにはもったいない。現代まで伸びている「私」という存在への問いが宿っている。
※当サイトには『<私>を取り戻す哲学』の書評も公開している。そちらもぜひ併せて読んでほしい