【名セリフ考察】鬼滅の刃:なぜ炭治郎は無惨のあの台詞に激怒したのか

【名セリフ考察】鬼滅の刃:なぜ炭治郎は無惨のあの台詞に激怒したのか

『鬼滅の刃』。この作品を改めて紹介することはあまり意味がないと思う。アニメ化・映画化にもなり『無限列車編』の国内における興行収入は400億円以上にもなった。一般的にアニメ映画では10億に到達すればヒット作と言われているなかで、前述の数字が驚異的なものであることは疑いようがないだろう。現在でも劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』が三部作で制作されることが発表され、その勢いは留まることを知らない。

炭治郎が激怒した無惨のセリフとは?

さて、この作品は日本の大正時代を舞台に、主人公の炭治郎が鬼と化した妹の禰󠄀豆子を人間に戻すために鬼たちと戦う姿を描く王道バトルマンガだ。名言が数多くあるなかで、本論が注目したいのは、炭治郎が宿敵である鬼舞辻󠄀無惨と戦う前に発した台詞。

無惨 お前は存在してはいけない生き物だ

普段温和な炭治郎から発せられる冷徹な言葉にドキっとした読者も多いだろう。最もこの言葉は無惨が「死んだ人間が生き返ることはないのだ」や「いつまでもそんなことに拘ってないで日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」、「お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう」という挑発にも思われる台詞を発したせいだ。身内を鬼に殺された炭治郎からすれば、その鬼の親玉である無惨を許せるわけもない。ましてや「いつまでもそんなことに拘っていないで」というのは屈辱の極みだろう。

しかし、炭治郎にとって無惨の台詞は自身の死生観と真っ向から反するものだった。このことが炭治郎の怒りを増幅させた。では炭次郎の死生観とは何か。実はこれを紐解くことで『鬼滅の刃』という作品の核心、そして、なぜこの作品が多くの人たちに受け入れられたのかがわかるのだ

炭治郎にとって「命」とは何か

そのことを考えるために必要なことは無惨自身の死生観の確認である。その象徴的な台詞は次のものだ。

「無惨は生きることだけに固執している生命体」

一方で、最終決戦では炭次郎の次の言葉に類するものが多くみられる。

「みんなで繋いだ一秒が無惨をここまで追い詰めた」

そして逃亡しようとする無惨に対して、こうも思っている。

「どんどん遠ざかる/追いつけない/そんな…そんな!!負けるのか?こんな負け方あんまりだ/みんなの命が無駄になってしまう…!!」

また別の例でいえば、恋柱の甘露寺蜜璃は負傷しつつも「私まだ戦える/今度は足を引っ張らないようにするから」と手当てした者に訴える。

炭治郎や甘露寺と無惨の死生観が対照的であることがわかるだろうか。

炭治郎にとって命は「繋げる」ためのものである一方で、無惨にとって命は至上のものであり、それを守るためには誰を犠牲にしてもかまわないという倫理観を土台としている。言い換えれば、炭治郎たちにとって死者とは、生者に何かを繋いだという意味で尊ぶべきものであり、無惨にとっては生存競争に敗れた敗者にしか映らない。だからこそ作中のシーンである隊士たちの亡骸を踏みつけ逃亡する無惨に対して、炭治郎は「亡骸を踏みつけに…」と更に怒るのだ。

この怒りは炭治郎が鬼殺隊の一員だという背景があるからだ、という指摘もあるだろう。すなわち、炭治郎の死生観ではなく、鬼殺隊の一員なのだから当然の感情だ、という指摘だ。しかし、この「繋ぐ」という思いが、作品の全体を貫いていることに注意を払わなければいけない

『鬼滅の刃』を貫くモチーフ

例えば『鬼滅の刃』では、どんなに強い味方であっても、鬼に対して一対一の戦いとなった場合は基本的に敗北している。その最たる例は『無限列車編』だろう。炎柱の煉󠄁獄杏寿郎は、上弦の参である猗窩座に敗北しているし、下弦の伍の累と敵対した炭治郎自身も、水柱の冨岡義勇が救援に来なければやられていた。『鬼滅の刃』は「繋ぐ」=「連携」を抜きにした戦いにおいては、主人公側が原則的に負けるのである。 さらにいえば、炭治郎自身の技もそうだ。最終決戦中に炭治郎は剣技であるヒノカミ神楽について次のように考えている。

「恐らく十二の型は繰り返すことで円環を成し/十三個めの型になる」

「円環」。途切れなく繋がっていること。このように作中においては「繋ぐ」ことをモチーフにした箇所が何度も登場している。ここまで読んでくれた読者はどうだろうか。すでに全巻読破している方であれば、思い当たるところがあるのではないだろうか。 改めて本論の冒頭に戻ってみよう。

炭治郎はなぜ「お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう」といった無惨の言葉に激怒したのか。炭治郎にとって、命とは「生き残った」から充分というわけではない。生を受け、その意味や経験、抱えていた思いを後世に伝承すること、他の命と結びついているが大事なのだ。だからこそ、理不尽に奪ってはいけない。理不尽に奪うことは、その伝承や繋がりを乱暴に絶ってしまうためだ。何を切り捨てても「生きればいい」とする無惨とは違う。この相容れなさが、炭治郎の怒りの理由であり、無惨というキャラクターが『鬼滅の刃』のラスボスとして描かれた理由なのだ。

令和のなかの「命」の意味と価値

ではなぜ、『鬼滅の刃』が多くの人に愛されたのかを、前述した死生観という点から考えてみたい。だがその前に『鬼滅の刃』と近年のヒット作との共通点をみていこうと思う。

その共通点は例えば、物語がマイナスからスタートするという点がある。『ワンピース』や『BLEACH』など一昔前のヒット作は、基本的にプラスマイナスゼロの状態からスタートする。『NARUTO』でさえ「落ちこぼれ」ではあったものの、忍者の卵という点から物語はスタートする。一方で『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』などは、最初に大切なものが暴力的に奪われる。決定的なマイナスからのスタートだ。なぜ、このような共通点があるのか。

このことについては三十年間の経済状況・社会状況を鑑みれば容易に理解が可能である。例えば今の三十代以下の世代は、「失われた三十年」と言われているとおり、生まれたときから不景気であり、それより上の世代と比べれば決定的にマイナスからのスタートである。このような主人公の設定が若い世代が、炭治郎と言うキャラクターを愛せた理由ではないだろうか。

だが一方で、このような世代には社会から与えられる役割が薄らいでいる世代ともいえる。本屋に行けばわかるだろう。キャリアに関する本は大量に出版され、どの店でも平積みとなっている。「意味」や「役割」は与えられるものではなく、自分で獲得しなければならないものなのだ

それ故に、炭治郎の死生観は多くの人の心の琴線に触れる。人が一つの生命である以上、後続へと「繋ぐ」という生命としての役割は、ハイキャリアを志向しようと、そうでなかろうと共有ができるものだからだ。そして皮肉なことに、無惨の死生観はインターネットの世論をにぎわせた世相を表す「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉と共振する

以上が、炭治郎の死生観や『鬼滅の刃』が人気を博した理由だと私は思う。

さて『鬼滅の刃』は原作がすでに完結しており、アニメも今後上映される『無限城編』でフィナーレを迎えるだろう。そのときに、この作品を単なるエンタメとして消化されるのか、それとも誰かの心を震わせることで「今だけ、金だけ、自分だけ」という殺伐とした現実を変える芽となるのか。その結果は、数年後明らかになるだろう。