【要約・書評】『人新世の「資本論」』2021年新書大賞作。いざ、21世紀のマルクスへ!

【要約・書評】『人新世の「資本論」』2021年新書大賞作。いざ、21世紀のマルクスへ!

手元にある『資本論』の帯文には「危機のたびに甦るこの難解さ、この面白さ!」とある。そして実際に蘇った。それこそが経済思想家の斎藤幸平『人新世の「資本論」』である。本論では二〇二一年の新書大賞を受賞した『人新世の「資本論」』の要約と、本書が抱える困難について、最近発売された橘玲『テクノ・リバタリアン』と照らし合わせながら考察を加える。


『人新世の「資本論」』の要約、あるいは『資本論』の新たな核心

本書は概ね三部に分けることが出来ると思う。一章から三章までは「なぜ今「資本論」なのか」という点について、主に気候変動という現代社会が直面する「危機」について整理し、巷に流通している「解決策」を批判する。「環境危機を乗り越えるために、なぜ「脱成長」が必須の選択肢であるのか。その理由については、ここまでの議論でおわかりだろう。第二章で私たちは、「緑の経済成長」路線では、人類全員が生き延びることのできる地球環境を維持できないということを学んだ」。急いで「緑の経済成長」について補足しようとすれば、ここではその根拠となっている「気候ケインズ主義」を説明したほうが早いだろう。「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資を行う。そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への移行を加速させる」。この理論についてどのような批判を加えるかは、楽しみのために本書へ譲ろう。


第四章ではマルクスの「転向」について語られている。「マルクスは自分の理論的転換があまりにも大きすぎたために、死期までに『資本論』を完成させることができなくなってしまった」とし「自然科学と共同体社会を研究することで、「持続可能性」と「平等」の関連について、マルクスは考察を深めようとした」。この「考察」を推し進めることこそ『人新世の「資本論」』の意義である。五章は「脱成長型コミュニズム」に対立する「左派加速主義」を検討する。そのあとが、いよいよマルクスの考察を深化させる章だ。


『資本論』に秘めた真の構想について『人新世の「資本論」』は以下のように語る。「この構想は、大きく五点にまとめられる。「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、そして「エッセンシャル・ワーカーの重視である」。ここで少し説明が必要なのは「使用価値」と「生産過程の民主化」だろう。マルクスは「価値」と「使用価値」を区別した。まず「使用価値」というのは商品そのものの有用性だ。例えば洋服。着心地や気温調節が適切なものであれば「洋服」は、どれも「使用価値」は変わらない。どんなブランド品であれ、中古であれ「有用性」は保たれるからだ。これに対してブランドやCMなどのイメージによって付加される(ように演出される)価値が「価値」だと認識していただければ大過ないだろう。やや重複になるが前者の有用性を基準とした価値の重視がここでは強調されている。つぎに「生産過程の民主化」だ。つまり「なにを、どれだけ、どうやって生産するかについて、民主的に意思決定すること」だ。これによって「原子力で発電する電力会社とは契約を切って、地産地消の再生可能エネルギーを選択することになるかもしれない」と本書では述べられている。ただ、当然のことながら本論の読者にはこの説明で満足してほしくない。これはあくまで用語説明だからだ。先程まとめた五つの要素が、どのような構想を描くのか。その立体的なイメージについてはぜひ本書を手に取って確かめてほしい。

『人新世の「資本論」』 VS 『テクノ・リバタリアン』

村上春樹の『風の歌を聴け』のように、まずは二つに分けてみよう。何を分けるのか。私たちの未来について、である。本論で紹介した『人新世の「資本論」』を既存の資本主義からの転回だとすれば、その一方は「対立する」とした「加速主義」だろう。幸いなことに、このことについて整理している本が最近出版された。橘玲の『テクノ・リバタリアン』である。同書から引用すれば『人新世の「資本論」』の立場は「マイノリティを含む多様な共同体を尊重する多元主義」、いわゆる「コミュタリアン左派」であろう。これらを対立が最も鋭くなる点は「技術」をどうとらえるかだ。『人新世の「資本論」』は「「閉鎖的技術」はその性質からして、民主主義的な管理には馴染まず、中央集権的なトップダウン型の政治を要請する」とある。一方で『テクノ・リバタリアン』は「とてつもなく賢いマイノリティたちは、強大なテクノロジーのちからで「よりよい世界」「よりよい未来」をつくろうとしている」と主張する。この対立を細かくみていけば、これらのことは民主主義の基盤である「共同体」もしくは「マジョリティ」への信頼・不信の対立ともとれるだろう。『人新世の「資本論」』では信頼、『テクノ・リバタリアン』は不信という立場だ。そうであるならば、問題の本質は「疎外」なき「共同体」や「コミュニティ」はどのようにデザインしうるかという点になってくるのではないだろうか(『テクノ・リバタリアン』で紹介されている論客は、コミュニティから疎外された経験をもっている)。


私としては『テクノ・リバタリアン』のように、「共同体」や「コミュニティ」には不信を抱いている。『人新世の「資本論」』における「共同体」の肯定は無邪気すぎるのではないか、というのが本音だ。一方で『人新世の「資本論」』の危惧「中央集権的なトップダウン型の政治」には同感する。さて、どうしたものか。


今年発売された本のなかで、上記のことに対する有効な解答を提示したと思うのが哲学者・東浩紀『訂正可能性の哲学』だ。この本については、別の機会に紹介させてもらうとして、「共同体」や「コミュニティ」が抱えがちな「同質性」「信者」という宿痾を乗り越えることができそうな可能性を感じた。ただし、いずれにせよ、私たちは大なり小なり「コミュニティ」に属しているのだ。未来の選択肢は、どういったコミュニティに私たちが快適さを感じてしまうか、その感受性の質によるだろう。換言すれば、現代社会の未来は常にその選択を私たちに迫っているのだ。


当サイトでは『テクノ・リバタリアン』の書評も公開している。ぜひ、そちらものぞいてほしい。