【要約・考察】『テクノ・リバタリアン』新時代からの誘惑と挑発
「革命のような「大きな物語」の幻想がすべて潰えたいま、テクノ・リバタリアニズムが「世界を変える唯一の思想」になった」。こう宣言するのは作家・橘玲の本『テクノ・リバタリアニズム』だ。「テクノ・リバタリアン」とは「自由を重視する功利主義者のうち、きわめて高い論理・数学的能力をもつ者たち」とされている。その代表的な人物を「イーロン・マスク」「ピータ・ティール」「サム・アルトマン」「「ヴィタリック・ブリテン」し、その思想の背景、目的を彼らの生い立ちから辿っていく。本論では『テクノ・リバタリアニズム』の要約(見取り図)と特徴、そして本書に隠された意図を考察していきたい。
『テクノ・リバタリアン』の構成と魅力
本書の構成は五つに分けることができるだろう。冒頭では「テクノ・リバタリアン」が、政治思想においてどのような位置となるかを確認する。実はその確認方法がとてもユニークだ。既存の代表的な政治思想である「リベラリズム」「保守」について、進化論的な基礎づけや道徳基盤を参照に批判を加えていく。特に「リベラリズム」への批判には鋭いものがある。詳細は本書に譲るが多くの道徳基盤を有する「保守」が、それより少ない「リベラリズム」と比べ、「どちらがより多くの支持を得るかは明らかだろう」という本書の主張にはかなりの説得力がある。この説明のあと、いよいよ「テクノ・リバタリアン」の説明となる。中心人物は「イーロン・マスク」と「ピーター・ティール」だ。彼らの背景を知ることで「テクノ・リバタリアン」の発想の根幹を知ることができる。
その後が「テクノ・リバタリアン」の詳細の説明だ。「テクノ・リバタリアン」には二つの立場があるとし、一つが「クリプト・アナキズム」と呼ばれ「暗号(クリプト)によって国家の規制のない社会をつくろうとする立場」であり、それは「テクノロジーが指数関数的に「加速」することで、いずれ国家や企業のような中央集権的な組織はなくなり、一人ひとりが「自己主権」をもつことになる」と構想する。イメージの原型としては「ビット・コイン」が挙げられている。もう一つが「総督府功利主義」と名付けられ「テクノロジーのちからによって社会を最適化しようとする。この場合も、民主制が(彼らの)幸福の最大化の障害になると考えれば、それに変わる統治が選ばれる」可能性を残すものだ。つまり「ひとびとの効用が大きくなるなら、テクノロジーを加速するだけでなく、デモクラシーを否定する、もしくは制限することも躊躇」しないが、奴隷制の復活のようなことにはならない。なぜなら「奴隷は人生の効用を著しく引き下げるため、功利的な総督府の政策として採用されることはない」のだ。アナキズムほどラディカルではないが、社会をテクノロジーで「デザイン」することで、多くの人間を幸福と自由に導く。もちろん、これらの考えにも問題点はある。前者であれば、貧富の格差であり後者は統治者の資質の問題だ。自由と責任、安全と支配。その対立点がここでは色濃く浮かび上がる。
次に本書は「サム・アルトマン」や「ヴィタック・ブリテン」などの起業家、プログラマーの紹介、そして彼らの思想や具体的な政策を検討していく。この点も本書の見どころの一つだろう。本書には「オークションを生活に取り込む「メカニカル・デザイン」で市場を再設計することを提案する」とある。この文章だけでは荒唐無稽なアイディアのように感じるかもしれないが、そういう人ほど『テクノ・リバタリアン』を手に取ってほしい。「やってみる価値はありそうだ」と思える。理由は単純だ。本書で述べられるアイディアは既存のシステムの「使い方」寄るところが大きいからだ。社会評論家たちによる、誰か実行するのかもわからない社会改良のアイディアよりも遥かに地に足のついた考えだと私は思う。例えば私有財産に定率の税を課す「共同所有自己申告税COST」というアイディアについて「ひとびとは逆に(課税されない)人間関係により大きな関心を払うようになるだろう」と述べられている。どういうことか。この考えは、いうなればモノへの執着が課税につながるからだ。課税を避けるために、人々は人間関係への愛着を重視することになる。「一部の富裕層が使いもしない不動産を買いあさる」世界より、生活スタイルを今より負担なく変更することができ、「みんなで楽しめるもの」が用意に手に入る世界。いうなれば、身近な人を大切にできる世界への提言が、ここではされている。
『テクノ・リバタリアン』の挑発
「優秀な人を雇うにはどうすればいいだろう」と相談されたとき「本当に「優秀」な人は起業していますよ」と返答し場を凍らせてしまったことがある。これが正当なのかは保留するにしても、仕事などで「自分の考えのほうがきっとうまくいく」と思っても実行するための障壁が多すぎると感じるのは私だけだろうか。その障壁に「年功序列」というルールがある。本書の「あとがき」で指摘されているように「年次が下の社員が、年上の社員よりずっと大きな成果を上げている」という事態が引き起こされれば、それは大問題になるからだ。このような理不尽や不合理を取り除き、人間が本当に「自由」になれるにはどういう社会が理想的なのだろう。それを本気で考え、紹介し、読者への「挑発」として書かれているのが本書『テクノ・リバタリアン』だと私は思う。そう、この本は「思想」の押し売りではない。「本書が、いま世界で起きている「とてつもない変化」について読者の理解に資することを願っている」のだ。この理解と「挑発」による情熱の喚起こそ、本書が狙っているものではないだろうか。そうであるならば、『テクノ・リバタリアン』から目を背けてはいけない。現代社会に理不尽さと閉塞感を覚えているのであれば、なおさら挑戦すべき一冊だ。
当サイトには『テクノ・リバタリアン』と対立する「コミュタリアン左派」の代表作・『人新世の「資本論」』の書評も公開している。両方を比較し、この対立の問題を分析した。そちらもぜひ併せて読んでほしい