【要約・考察】『バカと無知』(橘玲)私たちは「人間」を知るべきである
ネットでは今日も誰かが燃えているのだろう。そう思ってしまうほどに社会問題の噴出と人々の分断は進んでいる。この現状の原因について、政治的右派は愛国心の欠如、政治的左派は資本家や国家権力による作為的なものと考えているのかもしれない。しかし、そうではないと断言するのが『バカと無知』である。上述の原因が克服されたとして、私たちは争い続ける。なぜか。「人間」そのものが、そういう仕様だからなのだ。本論では橘玲『バカと無知』の要約と、本書の死角を考察したのち、橘玲の著書『テクノ・リバタリアン』との関係性を考えてみたいと思う。
要約あるいは正義・自尊心、そして愛について
『バカと無知』は五つの章によって構成されている。各章は「正義」「無知」「自尊心」「差別」「記憶」というテーマが設定されており、各章のなかでさらに細かく分けられている。その分けられている部分については、冒頭で問題提起、以降はその問題にかかわる科学実験の知見、そして結論という流れだ。これが全部で四〇個あり「人間」というものに対する科学的知見の見本市のようになっている。ここでは、私自身が最も興味深く読んだ知見をピックアップしてみたいと思う。
第一章のタイトルは「正義は最大の娯楽である」という名前だ。そのなかでも「自分より優れた者は「損失」、劣った者は「報酬」」は非常に興味深く読むことができた。「近年の脳科学では、「(自分より下位の者と比べる)下方比較」では報酬を感じる脳の部位が、「(上位の者と比べる)上方比較」では損失を感じる脳の部位が活性化することがわかった。脳にとっては、「劣った者は」報酬で、「優れた者」は損失なのだ」。このことから政治家や芸能人、その他「スター」やセレブのスキャンダルな話題が袋叩きにされる理由がわかる。「優れた者」を叩きのめし、「損失」を埋め合わせようとする。『バカと無知』は、このように社会問題に対して、「人間」の本性から答えを提出していく本なのである。
一方で別の章「やっかいな自尊心」のなかにある「日本人の潜在的自尊心は高かった」では、私たちが半ば「常識」だと思っていることがひっくり返されるような知見を得ることが出来る。ここでのテーマとしては「「自尊心が高い=個人主義的」「自尊心が低い=集団主義的」という議論になって、前者の典型が(傲慢な)アメリカ人、後者が(控えめな)日本人に割り当てられる」。この「常識」に対して本書はアメリカの心理学者アンソニー・グリーンワルドの調査の結果を紹介する。「ところが、親友と比べた潜在的自尊心(オレ/わたしの方がイケてる)をIAT(筆者註:行ったテストのこと)で調べると、三カ国の差はほとんどなくなった(日本人の学生はアメリカより低いが中国より高い)。さらに驚くのは、うち集団(オレたち)のなかの潜在的自尊心(このグループのなかで自分がいちばんイケてる)で、これをIATで調べたところ、日本の大学生の自尊心は、アメリカや中国を引き離して圧倒的に高かったのだ」。この結果について少し意地悪な見方をすれば、多くの日本人は、同じグループに属していても、お互いに「ま、自分のほうが優れてるし」と思っていることになるのかもしれない。
このような「事実」の提示は、一般にヒューマニズムの源泉と考えている「愛」についても同様に向けられる。具体的には「愛と絆のホルモン」と呼ばれている「オキシトシン」にだ。本書では他者との共感の基礎となっている「オキシトシン」の副作用について次のように述べる。「「オキシトシンは内集団びいきの郷党的な利他主義者にする効果がある」と結論した。敵対する集団にそれぞれオキシトシンを噴霧して「愛情」を高めると、かえって対立が激化するのだ」。仲間との絆が強くなればなるほど、結果的に排他的になる。この結論をもって橘は「こうした実験は、「愛は世界を救う」のではなく、「愛」を強調すると世界はより分断されることを示しているようだ」と悲観的な見方をする。
いかがだろうか。ここで紹介したのはほんの一部であり、本書は終始、「人間」に対する不都合な実験結果が提示されている。私としては、このような構成であるがゆえに、本書は大きなジレンマを抱えてしまっているという点は指摘しておきたい。つまり、「人間」に対する不都合な事実を提示しているがゆえに、本書からは未来への展望が切り開けなくなっている。あとがきには「人間というものはすごくやっかいな存在だが、それでも希望がないわけではない。一人でも多くのひとが、本書で述べたような「人間の本性=バカと無知の壁」に気づき、自らの行動に多少の注意を払うようになれば、もうすこし生きやすい社会になるのではないだろうか」と極めて消極的なことが書かれている。愚かな人間の、愚かな社会。それをより良いものとするには、愚かな人間では能力が足りない。また、人間が愚かなのであれば、ここで行われている「実験」についても、何か愚かな欠点があるのかもしれない。「身内びいき」が人間の「設計」なのであれば、人種別のバイアスだってあるのかもしれない。そんな「人間」と「社会」のジレンマをどう乗り越えればいいのか。その答えを、橘は『テクノ・リバタリアン』で提示している。
『バカと無知』から『テクノ・リバタリアン』へ
橘玲の著書『テクノ・リバタリアン』は、『バカと無知』より後に販売された。当然のことながら『バカと無知』でのジレンマをどうにかして乗り越えることが、暗に課された『テクノ・リバタリアン』の課題ということになる。本サイトで紹介した『テクノ・リバタリアン』の要約をご覧いただければわかるように、橘が希望を見出したのは、高すぎる能力がゆえにマジョリティから排除されている「マイノリティ」の存在だった。彼らはテクノロジーの力を借りることによって、社会変革の夢をみる。
ここで重要なのは、彼らが「マイノリティ」であることだ。『バカと無知』では明示されていないが、ここで断罪された「人間」は、恐らく「定型発達」と呼ばれる人々のことだろう。そうであるならば、『テクノ・リバタリアン』で紹介されているASDやADHDの「外れ値」の能力を有している人々は『バカと無知』の結果を、避けることができるのかもしれない。ゆえに、彼らに社会変革の夢を託すのは、自然な流れだと私は思う。しかし、ここでさらに困難な課題が浮かび上がる。
ロシア革命の結末をみるまでもなく、少数の「前衛」が大衆を啓蒙するという社会運動は、往々にして「独裁」を引き込んでしまう。テクノロジーを用いた変革であれば、オーウェル『1984』のようなディストピアを構築する危険性も孕んでいることは、ここまで読んでいただいた読者であれば、容易に想像がつくはずだ。この古くも新しい問題に、現代社会を生きる我々はどのように向き合えばいいのか。『バカと無知』と『テクノ・リバタリアン』から、私はそんな課題を提示されたように感じるのだ。
※前述したように当サイトには『テクノ・リバタリアン』の書評も公開している。そちらもぜひ併せて読んでほしい