【歌詞考察】なとり『Overdose』
解像度の悪い夢とは何か

もはや「解釈」というものは不要なのかもしれない。スマホを開けば簡単に「正解」が見つかる現代において正解がない「解釈」という行為は、多くの人に忌避される行為となってしまったかのように思う。
しかし、人の心を推し量ることは、どうしても私たちの生活にまとわりついてくる。例えば誰かを好きになったとき、相手の心を知ろうとして些細な行為や言葉を「解釈」してしまう。そのもどかしさを毒々しい歌詞に込めたのが、なとり『Overdose』だ。本文では、歌詞の意味、多くの人にとって謎となっているであろうサビ部分の歌詞「解像度の悪い夢」の意味に迫ることで、『Overdose』の毒々しい魅力を説明していきたいと思う。
『Overdose』が何を歌っているか。登場人物は歌詞にも「きみとふたり」とあるように「きみ」と(歌詞の中では語られていないが便宜上)「ぼく(もしくはわたし)」の二人だ。この二人は、どのような関係なのか。恋仲に近いということは「かわいい人」や「最愛の人」という意味の「darling」という単語から想像できる。
なるほど、この二人はお互いに好意を抱いているのか、恋人なのか、と納得することもできるが、歌詞をたどっていくと、どうやらそのような安直な考えでは捉えきれない事情があるように思う。「つまらないな、正解の読み合わせ」「嘘を被ったあなた」という箇所に注目したい。肝心なのが「正解」と「嘘」がはっきりとわかってしまっている点にある。「正解かもしれない」や「嘘だといいな」というような曖昧な形ではなく、「正解」と「嘘」が明確になっている。
どうしてこのようなことになっているのか。
結論を言えば、それは「きみ」という存在が、何かしらの役割を担っていたからだろう。ここでいう役割が具体的に何を指すのかは明らかになっていない。しかし「(ぼく(もしくはわたし)以外の人の)恋人」だったり「水商売に勤めている人」といった具合に、様々な社会的役割を代入することができる。
ぼくらは、そういった「役割」に対してある程度の規範を共有している。例えば、「親」としての振る舞い、社会人であれば「上司」や「部下」としての振る舞いというように、ある程度の「正解」と思われるものを共有している。さらに言ってしまえば、このようなふるまいに対する「正解」を示すかのように、本屋では「~の教科書」や「~になったら読む本」などの自己啓発本が積まれている。ぼくたちは「役割」に「正解」があると信じているし、それを求めている。『Overdose』の「きみ」は、「ぼく(もしくはわたし)」からみて、何かしらの「正解」がある役割を担っている人物なのだ。
しかし、サビ部分にあるように「分かりたいのに」という希望を「ぼく」は抱いてしまう。それが叶わないのであれば、せめて「きみ」の振る舞いに「解釈」を与えたい、その余地が欲しいと「ぼく」は思っている。だからこそ、「ぼく」は「解像度の悪い夢を見たい」という。ここまで読んでいただいた方にはわかるだろう。「解像度の悪い」とは「解釈」の余地があるということの言い換えだということが。
文芸評論家の三宅香帆などは令和のいまを「考察の時代」と評する。「考察」には「正解」があるものとし、多くの人がそれを求めている時代なのだそうだ。しかし、ぼくたちの生活には「考察」で解決できないものが多くある。そういった余地にぼくらの「人間らしさ」のようなものがある。「解像度の悪い夢」を多くの人が見たがっているというつもりはない。むしろ「解像度の悪い」現実は受け入れざるをえないものだ。だが、その「解像度の悪い」部分も、ぼくらにとっては光になりうる。「正解」があることの窮屈さと、「解釈」の余地という希望。時代への逆張りともいうべき歌詞となっているからこそ『Overdose』は多くの人にとって魅力的な歌となっているのだ。