【歌詞考察】柊マグネタイト『テトリス』

【歌詞考察】柊マグネタイト『テトリス』

君の苦しみの源泉に触れるための歌

生きづらさという便利な言葉があるが、その核心を掴むことは難しい。だが僅かな兆候に目を光らせ、耳を澄ませることで苦しみの根源に触れることができる。柊マグネタイト『テトリス』という曲は、そのポップな曲調とは裏腹に、現代を生きることの困難が刻まれている。本論は『テトリス』の難解な歌詞の意味を考察することで、その「困難」を解読していくことを試みていく。

『テトリス』の歌詞は一見すると支離滅裂であるように感じる。しかし少なくとも「ねえ誰か助けて」という一節が複数回登場していることから、この歌詞の基調は「苦しみ」であることは間違いない。問題は、それがどういったものか、という点だ

そこで注目したい部分がある。それは「どうしてすぐ見てしまうの」「どうしてすぐ言ってしまうの」「どうしてすぐ壊れちゃうのかな」といった具合に自問している箇所だ。この箇所は「見てしまう」「言ってしまう」という行動への懊悩のように思われるが、実はそうではない。ここの「どうして」は「すぐ」という部分への問いだ。行動ではなく、その反応速度に対する後悔にも似たような問いなのだ

根拠としては「鬱とか躁とか忙しくて眠れないわ」と「オイルマッサージ100分コース足湯付き」という歌詞にある。前者を「反応速度に対する後悔」の根拠の一つとするのに過分な説明は不要だろう。「眠れない」という辛さの原因は反応故の「忙しさ」という状況であることを示す。しかし、後者については少し説明がいると思う。

改めて歌詞を眺めると、その内容は全体的にネガティブな願望を歌っていることは誰にとっても明らかだ。「助けて」や「行きたくない」、「生きたくない」などは象徴的である。だが、先に述べた「オイルマッサージ100分コース足湯付き」や、類似の「温泉旅行3泊4日食事付き」の後には「行きてえ」と付くことから、これらはポジティブな意味での願望である。また、この2つの願望には共通点がある。それは要する時間が100分や3泊4日と具体的に書かれていることだ。

これらのことは「すぐ」という自身の反応に後悔を覚えているからこそ、100分や3泊4日など「すぐ」とはいえない時間をかけて行うことがポジティブな願望として現れる、という風に解釈ができる

ではどうして「すぐ」という反応が自身を責めるような苦しみを生むのだろうか。即断即決という価値観は、どちらかといてば現代社会では称揚されているもののように感じる。そこに適合できているにも関わらずなぜ…?

実はその答えも歌詞のなかにある。「興味が出ても本気でやっても全部空回りで」が答えに該当する。この「すぐ」への後悔は、これまでの行動の結果が全て「空回り」となってしまったから。ただし、ここに一つの屈折がある。望まない結果を得てしまったとき、一般には「自分はなんてダメなんだろう」や「私って才能がない」というように自身のポテンシャルを呪うはずだ。だが、これまで見てきたように『テトリス』は「すぐ」という反応に後悔のベクトルが向かっている。これはどう考えればいいのだろう。言い換えれば、人はどういう経路を辿れば、自分のポテンシャルを呪わないようになるのか、という問題になる。

この問いついては多くの人が既に解答を持っていると私は思う。端的にいえば、自分の可能性の上限を知ったあとで、望まぬ結果を得てしまったとき、人は自分のポテンシャルを呪うよりも軽率に(=「すぐに」)行動してしまったことを後悔するのではないだろうか。「身の程を知る」というやつだ。

自分の能力を鑑みれば、得られる結果など初めからわかっていた。にも関わらず歌詞にもあるとおり「盲信ですぐ惹かれ」たり「狂信ですぐ引かれ」てしまった。熟考すれば、わかっていたはずなのに。そんな後悔、軽率さが生んだ苦しさの跡が『テトリス』には刻まれている

しかし、私は自己否定(=自分の能力の見限り)の先にある自己否定(=すぐに反応してしまうこと)、この「二重の自己否定」ともいうべき重荷の原因の一端は現代社会の構造のせいにあるのではないか、と思わずにはいられない。例えば『啓蒙思想2.0』という本には次のようにある。「誰もが同じ狡猾なウィルスに感染している。私たちの慣習を破壊し、集中力を損ない、どんな些細な情報までも消費しように強いる「ファストライフ」というウィルスに」。詳細は先の著作に譲るが、端的に現代社会は人々の注意が一つに留まらないようなメディア環境が生活の隅々にまで浸透していると訴えている。情報に素早く反応するように強いられる。これが「ファストライフ」である。

とはいえ、自分の能力に折り合いをつけることや様々な可能性を試してみること自体は大切なことだ。それら自体は否定されるべきものではない。そして一方で、自身が知らず知らずのうちに抱えてしまった「否定」の重荷の全てを社会のせいにすることを手放しに肯定すべきでもないと思う。『テトリス』の歌詞内容のすべてに同調できるわけでもないが、そこに刻まれてる「苦しさ」のすべてを否定することもできない。読者諸兄はどう思うだろうか。いずれにせよ、このように視聴者に対してアクチュアルな問いを向けてくれる『テトリス』は良曲だということは異論を待たないのではないだろうか。