【歌詞考察】Orangestar feat. IA『アスノヨゾラ哨戒班』
「君」の正体とは未来人である。-条件付きのユートピアについて-

ボカロ界の名曲『アスノヨゾラ哨戒班』。本曲の考察は「将来に不安を持つ少年の「僕」が「君」と出会うことで、未来に希望を持つようになった曲」というものが、ほぼ定説のようになってきている。一方で「君」とは何者だったのかという点については、ほぼ誰も触れていない。しかし、その点を無視することは『アスノヨゾラ哨戒班』の大事なポイントを見落とすことにつながる。
定説を揺るがすことになってしまうが、先んじていえば、本曲の「僕」は「未来に希望を持つようになった」わけではない。どういうことか。「君」の正体を考察しながら論を進めていこう。
まず「君」は「大切な人」であることは認めなければならない。歌詞の「そんな僕を置いて月は沈み陽は昇る/けどその夜は違ったんだ/君は僕の手を」という部分から「大切な人」や「今までの「僕」を変えた人」という風に読み取れる。
しかしこの読み取り方は「けどその夜は違ったんだ」という部分が「明日よ/もう来ないでよって」と叫ぶ「僕」の主観的な「夜」であり、換言すれば「僕」に対し「自分」や「若者」などを投影した結果にすぎない。
歌詞を素直に受け止めてみよう。「けどその夜は違ったんだ」というのが「月は沈み陽は昇る」に関係していると読むのだ。わかりやすくいえば「月は沈み、陽は昇るという普通の夜ではなかった」というわけだ。
だが、このような「夜」はありえない。自然法則を無視している。しかし、このことが重要なのだ。どういうことか。ここでは別の部分にヒントを求めてみよう。
次に歌は「空へ舞う世界の彼方/闇を照らす魁星」とサビに突入するのだが、「君」は自然法則を無視する存在であるということを忘れてはいけない。「空へ舞う世界の彼方」という部分についても同様だ。「世界の彼方」が何を指しているのかは明言されていないがここでは「彼方」が距離のことを指しているとして「世界の彼方」を仮に「地平線」としてみよう。そのように考えても「地平線」が「空へ舞う」ことはありえない。しかし「君」は自然法則を無視する存在だ。そのように考えれば、「空へ舞」っていうのは「僕」と「君」だとは考えられないだろうか。本曲の動画に映し出されている画像が上下反転する理由もこれである。前述した「月は沈み、陽は昇る」という部分も、「僕」が上下逆転しているのであれば、なるほど、「月は昇り、陽は沈む」となるだろう。
これらのことから、「君」とは物理法則を無視する魔法使いのような存在だと考えられるのだ。
しかし、そんな「君」は消えてしまった。それは「世界は本当に綺麗だった」と過去形になっていることから想像ができる。ただし、この部分でも気がかりなことがある。歌の最後の「未来を少しでも君といたい」という点だ。見方をかえれば「僕」は「君」と未来で会えることを確信しており、そのうえで「少しでも君といたい」と願っているのだ。
さて先程、本論では「君」のことを「魔法使いのような存在」とした。だがこれらことを踏まえるならば、次のように考えられる。「君」とは「魔法使い」のような異世界人ではなく、「今」の延長線上にある世界の住人、それでいて更に、人間を「空へ舞う」ようにできる現代にはない技術のようなものを持つ存在、つまり「未来人」ではないかということだ。
根拠としては「また明日の夜に逢いに行こうと思うが/どうかな/君はいないかな」という歌詞だ。「君」が「未来人」だとしても、その「未来」が「僕」はいつの時点を指すのかはわからない。それ故に「明日の夜に逢いに行こうと思う」一方で、「君はいないかな」と迷うことができる。「僕」にとって、「君」がいる「未来」は「明日」かもしれないし、ずっと先かもしれない。ただし、「未来」に存在していることは分かっている。注釈を加えるとすれば「未来(できっと会えるはずだから、その時は)少しでも君といたい」と思える。
ここまでくれば、この歌の「僕」が安直に「未来に希望を持つようになった」わけではないということがわかるだろう。あくまで条件付きの肯定なのだ。その条件とは、「未来人」である「君」と会えるというものになる。言い換えれば、「君」がいれば、現在でも未来でも、「僕」にとってはどちらでもいいのだ。
かつて「未来」はユートピアだった。今より豊かに、今より便利に、今より明るい社会という風に多くの人が信じていた。しかし『アスノヨゾラ哨戒班』が示しているのは、いうなれば、関係としてのユートピアなのだろう。まず関係がある。それが再び現前するのが「未来」だったというわけだ。
いかがだろうか。繰り返しになるが、本曲は単に未来を肯定するだけの曲ではない。未来や明日に進むとして、そのうえで何が大事なのかを示してくれる。そんな名曲なのだ。