【歌詞考察】吉田夜世『オーバーライド』の魅力

【歌詞考察】吉田夜世『オーバーライド』の魅力

届かない声と生存戦略

自分の本心を曝け出せる時間は、人生においてどの程度あるだろう。同時に、自分のことを言葉以外のところから汲み取ってくれる人との奇跡のような出会いは、どの程度あるのだろう。YoutubeやTikitokなど、様々な動画投稿サイトで流れる曲、吉田夜世『オーバーライド』も、実はそんな要素が含まれると考えることができるとすれば、あなたはどう思うだろうか。ボーカロイド・重音テトによって歌われている本曲は、現実世界では「キャラ」を演じ、SNS上では誰かの、あるいは自己プロデュースに明け暮れる僕らがどこかで感じているであろう生の空虚さを、軽やかになぞる。

自分の生が抱えている不全感、虚しさ、或いは誰とも分かり合えない孤独感を言葉にしたいとき僕は『オーバーライド』を聴くべきだと僕は思う。本文ではこれらのことを、歌詞の意味を丁寧に扱いながら一緒に考えていきたい。


「バットランドに生まれただけでバットライフがデフォとか」という歌い出し。これだけで現代日本に生まれ育った僕らのための歌だということがわかるだろう。そんな僕らの気分を代弁するように「参っちゃうね」と曲は続く。

それでも僕らは抵抗する。不幸になることを望む人は誰もいないだろう。幸福に生きたい。だから行動する。何でもいい。リスクを背負っても、このまま犬死するのは嫌だ。警告されても、そうするしかないのだ。「暗い無頼社会 vs bright未来世界ならちょっと後者に行ってくる。大丈夫か?うるせえよ」という一節は、僕らのやけっぱちのギャンブルにも似た選択を歌う。けれど、その道は険しかった。次の歌詞は本曲のサビ部分だ。「限界まで足掻いた人生は想像よりも狂っているらしい」やその後に続く「豪快さにかまけた人生はきっと燃やされてしまうらしい」は、まさに常人ではいられない、ただ幸福に生きたいというだけの困難さの象徴だ。特に後者の歌詞は、SNSやインフルエンサーのことを示しているのは、想像に難くない。

けれど、思い出してほしい。このような選択は元々「幸せに生きたい」という素朴な願いから始まったものだ。ではこの「幸せ」とは何だったのか。歌詞を読む限りでは、親しい人と楽しい時間を過ごしたい、という純朴なものだということがわかる。けれど、そういう繋がりを切ってしまったのだろう。現代で幸せに生きることと友人らと楽しい時間を過ごすことの二者択一が迫られる。この残酷さ。例えば次の歌詞だ。少し長くなるが引用したい。「まあこの地獄の沙汰も金次第でどこまでも左右できるわけだし?アンタが抜け出せるわけがないよ それで話はおしまい?ならばもうこないからね」。多分、少しだけ分かり合えていた人との会話だったのだろう。けれど、別れる。「幸せに生きる」という抽象的な価値観、そのための情熱の差が、決定的な違いと別れを生んだのだ。だから歌詞は示す。君のもとには「もうこないからね」と。

しかし。

しかし、である。

本当は別れなど望んでいなかったのだ。自分の情熱を、必死さをわかってほしい。否定的なことを言わずに見守っていてほしい。応援してほしい。そんな気持ちの吐露が、この歌には潜んでいる。歌は次の歌詞とともにクライマックスを迎える。

「シタイだけ探した冒険タンどうか消えるまでスタンド・バイ・ミー」

「吐いた言葉の裏なんて知る由もないだろう」

前者は映画『スタンド・バイ・ミー』を念頭に置いている。この映画自体は死体(シタイ)を探すという目的を共有した少年たちの友情譚だ。また「シタイ」(したいこと、やりたいこと)という欲が消えるまで傍にいてほしい(「スタンド・バイ・ミー」の訳)は先ほど述べたように「見守ってほしい」「応援してほしい」という意味が含まれることは、ここまで読んだ方であれば、わかってくれると思う。行動ではない、自分の本心をわかってほしい。けれどそんな願いが絶望的なことだともわかっている。だから歌詞は後者の「吐いた言葉の裏なんて知る由もないだろう」と続くのだ。

そして、この選択はもうやり直せない。この虚しさ、惨めさ、後悔が本曲の最後「哀れ哀れ」となっている。間違った選択をした覚えはない。一生懸命やってきた。それでも、何かをどこかで間違えたのだ。そんな自分の愚かさの後悔が短い一節の中に込められている

これらのことを踏まえて、もう一度聞いてみてほしい。現代を生きる僕らの心を見透かしたような歌詞だと思うのはきっと自分だけではないはずだ。