【要約・考察】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』メタ・ビジネス書のすすめ

【要約・考察】『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』メタ・ビジネス書のすすめ

なぜ働いていると本が読めなくなるのか。本書を貫く問いは、タイトルのとおりだ。この本は、そんな問いに対して労働史、特にビジネスマンという階級・階層の揺れ動き、そしてベストセラーなどにみる日本人の読書の歴史という二つの柱の関係性から答えを導き出していく。このページでは、その関係性の歴史を要約すると同時に、本書が導き出した答えに対して、別の視点からの解釈を試みたいと思う。ただし、急いで付け加えておきたいことがある。本書は読書家のためだけの本ではないということだ。ここでいう読書は広義の「趣味」だ。つまりこの本は「なぜ働いていると趣味に没頭できなくなるのか」と言い換えができる。このように言えば、心当たりがある人は少なくないだろう。学生時代に没頭していたゲームや音楽が、心から楽しめなくなっている。本書は、そんな人たちに対する処方箋でもあることは、本題に入るまえに主張しておきたい。「没頭」を忘れたすべての人へ、本書は届けられるべきものなのだ。


『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は全十章で構成されている。一章と二章の舞台は明治・大正。第三章以降は昭和の「労働」と「読書」の関係を戦前・戦中、五〇・六〇年代と区切り、七〇年代以降は一〇年代ごとに「働き方」と「読書」の関係を、「ベストセラー」という観点から分析していく。そして最終章に、タイトルへの解答という構成だ。ここでは注目すべき章である二章(大正期)、第四章(五〇・六〇年代)、そして第七章(九〇年代)をピックアップしたい。

要約、あるいは希望としての「読書史」

第二章のキーワードは「社会不安」と「サラリーマン」だ。前者について本書は当時のベストセラーである『出家とその弟子』『地上』『死線を超えて』に注目し以下のように述べる。「これだけ売れた書籍たちのテーマが、揃いも揃って、生活の貧しさや社会不安への内省なのだ」「これらの暗い本がベストセラーになるほど、大正時代の人々は不安を抱えていたらしい」。これらをもって、著者は当時、「スピリチュアルが、社会主義が、売れる!」としている。
しかし一方で本書は谷崎潤一郎『痴人の愛』が売れたことにも注目する。この小説の主人公がサラリーマンであることを指摘し、彼らの苦悩を紹介する。「労働者階級とは違う自分を誇示するために、見栄のために食費を削ってまで、服飾費にお金をかけるサラリーマン。(…)休みは減らされながらもそれでも働き続け、しかし常に解雇の恐怖と隣り合わせ」。そんなサラリーマンたちの心を掴んだのが『痴人の愛』だという。「『痴人の愛』の冒頭をひとことで言ってしまえば、「田舎出身の真面目なサラリーマン(しかし絵に描かれた姿はかっこいい)が、まだ好景気だった時代に、カフェで美少女と出会う話だ」「不景気に疲れたサラリーマンが朝刊で読む小説として、これほど癒されるものがほかにあるだろうか」。この逃避行としての小説(フィクション)は今だって変わらない。『痴人の愛』を今風のタイトルにするならば「貧乏サラリーマンだった俺が、好景気だった時代に転生したらカフェで美少女に出合った件」といったところだろう。「大正」という、すでに「歴史」の一部になっている時代だが、こうしてみると当時の人々の生々しい感情が伝わってくるようだ。
そして、このような見方は、書店で平積みにされている「ベストセラー」の見方も変えてくれる。「どんな人が読んでいるのか」「その人々はどんな生活を営んでいるのか」「この本が平積みにされている本屋、地域はどんな特徴があるのか」。そんな想像が可能であることを教えてくれる。時として自己啓発書よりも、自己啓発が並べられている場所から多くの知見が得られる可能性が本にはある。そんなことを教えてくれているように私には思える。

さて、時は下って第四章(五〇・六〇年代)である。この時代の特徴として本書は次のように述べている。「学歴が階級差として存在していた時代、そこを埋めるのは、教養を身につけることだったのである」。そしてこれを可能にしたのが「読書」であった。偏見と差別、そんな視線を跳ね返すための「読書」あるいは「勉強」。そんな時代を象徴する事件が「永山則夫連続射殺事件」だろう。この事件は、両親から(今でいう)育児放棄された少年・永山則夫が起こしたものだ。集団就職を機に上京し、勉学に励むものの、「網走生まれ」を「網走刑務所生まれ」と冷やかす周囲からの中傷に苦しみ続けることになる。偏見により絶たれる「勉強」による階級の上昇への道。このことが永山を犯罪に走らせ、事件は起きた。詳細な分析は社会学者・見田宗介の著書『まなざしの地獄』にゆずるが、本書が捉えている時代背景は、的を射ていることがよくわかる。そう、かつて、「読書」は希望だった。そういう時代があった。

しかし、現代ではどうだろう。「読書」は希望だろうか。大正時代でもそうであったように、誰かの「救い」となっているのだろうか。だが、もしそうであるのなら、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。変化したのは、どちらだろう。顧客のニーズをとらえきれない出版業界か、あるいは私たちの感受性が変化したのだろうか。その答えとなるのが第七章(九〇年代)である。


読書がノイズになりはじめた時代

九〇年代に出版された本『脳内革命』のベストセラーについて、本書は時代の変化をみる。「実際、これを契機に、出版界には「脳」ブームが巻き起こる。しかしそのほとんどは、脳科学書というよりも発想法、思考法やビジネス書——つまり今でいう自己啓発書が多かった」。そして明治時代にも自己啓発書が流行したことを踏まえ、「しかし90年代の自己啓発書は、読んだ後、読者が何をすべきなのか、取るべき<行動>を明示する。そこに大きな違いがある」と指摘する。素朴に考えれば、不景気によって社会不安が大きくなり「「自分のキャリアは自己責任でつくっていくもの」という価値観が広がっていく」ことで「自己啓発」が流行する、というのは違和感のない考えだ。

しかし、ここからが面白い。本書は「自己啓発」というジャンルを「ノイズを除去する」姿勢を重視するものだと定義する。どういうことか。「就職活動や転職活動、あるいは不安定な雇用のなかで成果を出すこと。どんどん周囲の人間が変わっていくなかで人間関係を円滑に保つこと。それらすべてが、経済の波に乗り市場に適合すること――現代の労働に求められる姿勢である」。「適合するためには、どうすればいいか。適合に必要のない、ノイズをなくすことである」、「だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用をもっている。知らないことを知ることは、世界のアンコントローラブルなものを知る、人生のノイズそのものだからだ」。そして「本を読むことは、働くことの、ノイズになる」。だから「読めなくなる」。これが本書の結論だ。もちろん本文が「要約」である以上、この結論の詳細を語ることはできない。ただ、この結論に対して直感的に納得できるのは、私だけはないはずだ。変化したのは、私たちの感受性、本書の言葉でいう「ノイズ」への免疫の低下なのだ。思い当たる事柄は多くあるだろう。公園で遊ぶ子供たちを「うるさい」という大人、とにかく「タイパ」を求めるコンテンツ鑑賞、そして好きなものしかみることのできないインターネット空間。「ノイズ」への拒否感の事例は枚挙にいとまがない。しかし、私自身の立場は、著者と同じだ。「働きながら、働くこと以外の文脈を取り入れる余裕がある。それこそが健全な社会だと私は思う」に同意する。このことについて「余裕」や「健全」とは違った視点から「人文書といった社会や感情について語る書籍」を取り入れる必要性を考えてみたい。

メタ・ビジネス書としての「人文書」

本書では、「人文書」は読者に「アンコントローラブルなもの」を「ノイズ」として提示するとしていた。しかしこの「ノイズ」に耳を傾けることが重要だと思う。指摘されているように「キャリアは自己責任で作っていくもの」という風潮について、綿密な分析をした人文書『能力主義と企業社会』(岩波新書)では「これまで」は「年功と「忠誠心」重視の非能力主義」、「これから」は「個人主義——業績重視の能力主義——プロフェッショナル化」について「この「これまで」イメージがどれほど不正確であるかはすでに本書の叙述が示しており」とし、さらに「その評価にもとづく処遇格差の程度、労働者が企業の要請をみたしえない場合に受けなければならない冷遇の程度などについて、成否または適否を問う問題意識がおよそみられない」と指摘する。この曖昧な基準のせいで「「自己啓発」の努力が労働者生活からゆとりを失わせ、ひいては「能力不十分」とみなされる人が輩出するだろう」と指摘する。これらのことを言い換えると「キャリアは自己責任」という「自己啓発」の前提というのは、リストラを正当化する論潮となっている。いや「正当化」どころか「成否または適否を問う問題意識がみられない」以上、残酷な「コストカット」の論拠でしかない。「自己啓発」とは一種の罠であると言っても言い過ぎではないはずだ。
この「ノイズ」を把握することで、例えば、闇雲な「自己啓発」に奔走するのではなく、不合理な事態に遭遇したときに備え、地域の繋がりを大切にすることや雇用問題における知識を蓄えておく、自分が快適に暮らせる最低限の生活レベルを把握するなど、冷静な行動が可能になるのだと私は思う。これが「ノイズ」とされた「人文書」、メタ・ビジネス書の力なのではないだろうか
いかがだろうか。本論は都合上、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の大部分をカットせざるを得なかった。しかし、それは決して「つまらない」からではなく、ひとつの「楽しみ」として捉えてくれたらと思う。本書はぜひ多くの人に読んでもらいたい。

※当サイトには『能力主義と企業社会』の書評も公開している。そちらもぜひ併せて読んでほしい