【歌詞考察】『ヨワネハキ』歌詞に込められた現代の切迫感と生き方

【歌詞考察】『ヨワネハキ』歌詞に込められた現代の切迫感と生き方

歌詞に込められた現代の切迫感と生き方

『ヨワネハキ』は、和ぬか、asmi、MAISONdesによる楽曲で、TikTokを中心に爆発的な人気を誇る一曲だ。独特なメロディと歌詞が特徴の本曲は多くのリスナーの心に今でも深く響いている。特に、歌詞の中で描かれる感情や状況が共感を呼び、多くの人々がその意味を考察している。このブログでは、『ヨワネハキ』の歌詞に込められた意味を考察・深掘りすると同時に、人気の秘密に迫っていく。結論だけ先んじて言えば、この曲の歌詞には現代に特有の切迫感が込められており、それが人気の理由なのだ。

見知らぬ場所と自室の対比

さっそくだが、一つ問うてみたい。見知らぬ場所を訪れたあと、自室に戻るとひどく落ち着くことはないだろうか。「やっぱりわが家が一番」などと言うように、慣れない環境では自室が落ち着く場所だったりする。

そう考えてみると『ヨワネハキ』には少し妙なところがある。冒頭の「裏路地の真ん中で/慣れない景色と好かない匂いに/私は覆われて/染まっていくんでしょ」、そして中盤の「することは単純で/マニュアル通りな生活を/来る日も淡々と過ごしていた」という部分。

「慣れない景色」ということは「私」にとってなじみの浅い土地にいるということがわかる。それならそれで「マニュアル通りな生活を」繰り返すというのは、安心するために必要なことだと思う。

だが妙なのだ。その日々を「私」は否定的に捉える。見知らぬ土地でなら、特に無理に行動的にならずとも良いと思うのは私だけだろうか。しかし「いつもの夕日を薄目で眺めて/胸の内で呟いた/「いつまで続くのだろう」」という部分が「私」の日々に対する否定的な感慨を象徴している。何かアクションを起こさなければならないという強迫観念にも似た「何か」に「私」がとらわれているとわかる。

「ちゃんと生きる」とは何か

さて、ここからが面白い。歌詞の最後にある「試しにちゃんと生きてみよう」とは、具体的にどのような生き方なのか。注目したいのが繰り返し登場する次の部分。

「描いた理想像に現実味がないから/近づけないようにいきときます」

この歌詞の少し奇妙な部分がわかるだろうか。ふつう、理想像に現実味がないのであれば「近づかないように」と言うべきところが、本曲では「近づけない」というふうになっている。「近づかない」という自身の意思ではなく、「近づけない」という第三要因による制約により「理想像」から距離を取っているのだ。

このことからわかるのは、どこか「客観的」であろうとする「私」の生き方ではないだろうか。この、わずか数文字の「近づかない」と「近づけない」という言い回しの差異に本曲の人気が込められている。

現代社会と「客観性」

2023年に新書大賞で3位に選ばれた『客観性の落とし穴』という本がある。この本では「客観性」や「データ偏重」の世情に「主観」の価値を説いた本なのだが、ここで言いたいのは、「客観性・データ偏重」に社会の雰囲気がなっているのではないか、ということだ。

もしこの仮定が合っているのであれば『ヨワネハキ』の「私」がいう「ちゃんと生きてみよう」の意味が自然と明らかになる。

たしかに振り返ってみれば「誰かがやってきて毒味をするまで待っていた」とあるように「私」は、一歩引いた生き方をしていることがわかる。それを「ちゃんとした生き方」と呼ばないのであれば、「ちゃんとした生き方」というのは自身の主観を大事にしたものであることがわかる。そのことを歌っているからこそ、『ヨワネハキ』は人気曲なのだ。

つまり「何もしない」ことの切迫感、「客観的」であることの現代性と違和感、それを抜け出すための「生き方」がわずか3分未満の本曲に込められている。見事な音楽だという他にないだろう。

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