【歌詞考察】GLAMOROUS SKY
―夢を手放せなかった夜に、赦しを。―

意味のない疾走に名前をつけるために
あなたが『GLAMOROUS SKY』の歌詞に惹かれるのは、きっとそこに「壊れてもいい」と願ったことのある自分を見出してしまったからだ。この曲が語るのは、勝利でも再生でもない。むしろ、絶望の中に身を投じ、それでも空を見上げてしまう癖のような希望だ。
「繰り返す日々に何の意味があるの?」という叫びには、現状への飽和だけでなく、未来を信じきれないまま、それでも走るしかなかった誰かの呼吸が染みついている。そして「夢を抱えて一人歩く」と歌うその声は、決して強さの証ではない。むしろ、寄る辺を失ってもなお“歩くことだけはやめなかった”人の祈りだ。
あなたがこの曲に心を動かされたのは、明日を信じることができなかった夜、それでも何かを抱えて踏み出したあの一歩に、この歌がよく似ていたからではないか。たとえ靴が濡れても、声が掠れても、空を見上げてしまったその瞬間。『GLAMOROUS SKY』は、その記憶のためのアンセムだ。
喪失を抱えて、それでも空を見た
希望ではなく、記憶としての夢
『GLAMOROUS SKY』の歌詞は、回想・現在・未来が錯綜しながら展開されていく。冒頭の「開け放した窓に/廻る乱舞のDEEP SKY」という視覚的な描写は、まるで現在の閉塞感の中に入り込む“過去の残響”のようであり、すぐさま「繰り返す日々に何の意味があるの?」という問いに突き刺さっていく。
サビに登場する「虹を渡って」「朝に帰りたい」「夢を並べて」といった表現は明らかに回顧的であり、歌詞全体は「かつての二人」と「今の私」の間を揺れ動く構造を取っている。現在形で語られるのは、決して希望ではない。夢は未来ではなく、「かつて在ったもの」としてしか語られていないのだ。
歩くことが祈りになるとき
「履き潰したROCKING SHOES」「跳ね上げるPUDDLE」──視覚と触覚に満ちたこの描写は、語り手が前進しているのではなく、止まってしまえば崩れてしまうから“進み続けるしかなかった”ことを表している。
また、「夢を並べて二人歩いた」「夢を抱えて一人歩く」という言い換えに表れているのは、喪失と孤独の対比である。“夢”が叶うものではなく、もはや背負うものへと変質している。語り手はそれでも歩き続ける。それは希望ではなく、すでに諦念と化した願いへの、最後の忠誠だ。
夢が負債になる時代に
『GLAMOROUS SKY』の語り手は、未来を語らない。むしろ「夢を抱えて一人歩く」ことで、夢が叶えられるものではなく、失えなかったものとして重くのしかかっていることが露わになる。SNS時代の今では、夢を「見せる」ことが期待される。それを実現するよりも、信じ続けるふりをする方が、はるかに難しい。
この曲がいまも響くのは、「走ってもどこにもたどり着けない」ことを知っている人たちが、かつて以上に増えているからだ。そして語り手の姿は、彼らの沈黙を代弁する。走るのは希望のためではない。走るのをやめれば、自分が消えてしまいそうだから──その祈りが、この曲にはある。
夢を手放せなかった夜に、赦しを。
あなたがこの曲に惹かれたのは、夢を信じていたからではない。むしろ、信じきれなかった夢を、それでも捨てきれなかった夜があったからではないだろうか。
『GLAMOROUS SKY』は、夢の美しさを歌っていない。それはすでに失われたものとして、語り手の中に残っている。「並べた夢」「抱えた夢」は、叶える対象ではなく、忘れられなかった記憶であり、これ以上何も持てない心に、唯一残った“重さ”である。
だからこそ、この曲はあなたに許可をくれる。“もう夢を語れなくなった人”にも、“未来を信じるふりができなくなった人”にも。それでも歩き続けたあなたに、泥水で濡れた靴のままでいいと、言ってくれる。
この歌が「空を仰ぐ」瞬間に語るのは、希望ではなく、希望になれなかった日々を抱える者の祈りだ。虹はもう渡ってしまった。でも、記憶のなかでそれは確かにあった。そのことが、今日もあなたが歩いている理由になるなら──『GLAMOROUS SKY』は、今なおあなたのための歌であり続ける。