【歌詞考察】すりぃ feat.鏡音レン『テレキャスタービーボーイ』
「僕」と「少女」の切ない関係

もはやレジェンドといっても過言ではないだろう。ボカロ曲『テレキャスタービーボーイ』といえば、その疾走感あふれる曲調とかわいらしいキャラクターによるMV、なにより考察を誘発させる意味深長な歌詞により多くの人から愛されてきた名曲だ。
一方で、生み出された考察は、どこかまとまりのない内容だったり、映像の解釈に終始している印象がある。
そこで本論は、そんな『テレキャスタービーボーイ』の歌詞自体の意味に注目し、考察してみたいと思う。そんな考察の結論を先んじていえば、この曲はネットのアイドルと、そのファンとしての「僕」の関係を歌っているというものである。そのために注目したいのは歌詞の中にでてくる「僕」と「少女」そして「僕たち」の関係と、曲中に出てくる感情である。さっそくみていこう。
まず「僕」と「少女」という言葉だ。曲のなかでは「僕に愛情を」とあることから、彼は愛に飢えていることがわかるが、それ以上のことはわからない。そして少女についても、どのような属性を持つかは描かれていない。しかし、である。この「僕」を「少年」と言い換えるなら、曲中の次の歌詞は示唆的だ。
「少女は鳥になって」(一番)
「少年は風になって」(一番)
「少女は花になって」(二番)
お分かりいただけただろうか。「少年」には実態がなく、「少女」には「鳥」や「花」など実態があるのだ。更に「鳥」と「風」という言葉から考えれば「少年」は「少女」にとっての推進力になりうる存在だと見て取れる。
そして、そんな「鳥」は「花」になる。この「花」はアイドル的な存在の比喩ではないだろうか。例えば「嘘で固めたウォーアイニー」という歌詞。この部分は「少女」がアイドルであると仮定すれば、納得がいくのではないだろうか。アイドルである以上、多かれ少なかれ嘘はある。そのことをシニカルな愛としてを描写しているのが「嘘で固めたウォーアイニー」という歌詞なのだ。更にいえば「少年は風になって」の直前にある「デジタル信者」という言葉は、昨今のVtuberのような存在を推すファンを想起させる。
一方、二番に登場する「花」にとっては「風」は必ずしも必要な存在ではない。「風」にすらならない。だからこそ二番で「少年」は何にも変化していないのだ。
つまり少女がアイドル的な存在として駆け出しのころ、少年は少女の力になっていた。しかし、歌詞にあるとおり「毒針持ったように歌っ」て花のように愛される存在になってからは、「奴らの声は派手になって」、つまり他のファンの人たちの声が大きくなってしまい、少年の力は必須ではなくなった。ここにアイドルと古くからのファンという関係性を重ねてしまうのは私だけだろうか。
もちろんこれだけではない。歌詞の次の変化をみてほしい。
「僕に愛情を」(一番)
「僕に感情を」(二番)
わかるのは「愛情」から「感情」への変化である。「僕」にとっては向けられるものが「愛情」でなくてもよくなっているのだ。「感情」というところまで譲歩してしまっている。この変化は「少女」が「少年」にとって、とても遠い存在になってしまったことを示唆しているのではないか。
だからこそ、そんな空虚さや自らが抱えている欲求に耐えられず、少年は自死を選ぶ。それが次の歌詞である。
「こんな世界じゃもう息ができなくて/さよなら告げた現実に」
あるいはファンであることを辞めようとしているのかもしれない。
「許してくれないか/弱い僕たちを/また何処かで会いましょう」
ここでいう「僕たち」を本論では先述したとおり「ファン」と捉えている。それも古参のファンだ。推しを推せなくなってしまった自分たちを「弱い」と形容しているように思えてならない。
だが結局、「少年」が「少女」のファンに戻ったのかは明言されていない。だが「僕に愛情を」と要求している点に注目すれば、(本論の文脈で言えば)少女がアイドルとして駆け出しの頃の描写に戻っている。このことから「少年」は「少女」のファンで居続けることにしたのかもしれない。この点については曖昧であるがゆえに視聴者の解釈に寄るのだろう。
いかがだっただろうか。すりぃ feat.鏡音レン『テレキャスタービーボーイ』の歌詞の意味や言葉同士の関係性を読み解くことで、一つのまとまった考察になったと思う。