【歌詞考察】kanaria『酔いどれ知らず』
歌詞に込められた悲恋と我を忘れる多幸感

深いテーマと悲恋の解釈
『酔いどれ知らず』という曲をご存じだろうか。多くの人々に愛され、歌詞には深い意味が込められているこの歌は、特に若い世代の間で人気が高い。その人気を示すようにネットには感想が多く転がっている。それらは歌のタイトル『酔いどれ知らず』が示すように、酔っ払いのように現実から逃れたいと願う心情を描いているというのが多い。
たしかに一般的には、この歌は孤独や現実逃避などのテーマが取り上げられていると解釈されがちだが、実はその裏に悲恋の物語が隠されている。登場人物は叶わない恋をしているため、今この瞬間だけでも恋や愛に溺れたいという切実な願いが歌詞に込められているのだ。
例えば、繰り返し登場する「醒めないで」という表現が、現実から一時的に逃れたいという儚い願いを象徴しているように。本論では、これを証明するために歌詞の意味を読み解いていきたい。
束の間の幸せと伝えきれない愛情
まず「いっかの幸せ」という表現を見てみる。この言葉は曲の終盤に登場するが歌詞は「いっか」とひらがなで書かれている。これに漢字を当てるとすれば「一過」になるのではないだろうか。一過、一瞬の出来事。そう解釈することで、束の間の幸せを追い求める切ない心情が浮かび上がってくる。
「今この瞬間だけでも恋とか愛に溺れたい」というテーマと一致し、歌全体の一貫性を保っている。しかし、そもそもどうして「一過」なのだろうか。想像力を膨らませれば、歌に登場する「私」は、誰かに叶わない恋をしていると考えられる。先がない恋の結末を「私」は知っているのだ。
そういった意味で「千を隠して十を吐ける」という表現についても同じことがいえる。ここにも巨大な愛情を抱えつつも、自身の感情をすべて伝えることが相手を困らせるとわかっていることの心情の機微がうかがえるのではないだろうか。
屈する態度とエロティシズム
だからこそ、というべきだろうか。本曲には「言葉では伝えられないけれど」と躊躇しつつも、それでも気持ちを伝えたいという熱量を感じる箇所がある。それが「屈する態度で言葉さえなくて」という部分だ。
この表現は、一見すると悲しみや諦めを示しているように見えるが、実はエロティシズムを含んでいるのではないだろうか。言葉がなくなる状況は、うめき声や喘ぎ声に置き換えられることも考えられるし、屈する態度は性交時の姿勢を暗示しているかもしれないと思うのは、考えすぎだろうか。
このような、忘我ともいえる多幸感を「酔い」と表現することが本曲の魅力を増している。「酩酩重ね重ね存外そう悪くないわ」というフレーズにも、一過の幸せに対してどこか冷めつつも断ち切れない生々しさ、誘惑にあらがえない動物っぽさが透けてみえる。
いかがだろうか。一般的な解釈とは一線を画し、悲恋やエロティシズムの視点から見ると、この歌の魅力がさらに深まる。この歌の魅力をあなたはどう思うだろうか。