【歌詞考察】ピノキオピー『超主人公』が問いかける「物語の終わり」の不可能性

『超主人公』(ちょうしゅじんこう)は、2025年2月14日に公開された楽曲であり、ボカロPのピノキオピーによって作曲、作詞、イラスト、動画が手掛けられている。
一見するとシンプルなメッセージを発している本曲だが、歌詞のテーマや内容については多くの解釈を可能にし、フォロワーやリスナーからの考察が活発に行われている。
本論では、歌詞の意味を考察することによって、『超主人公』という曲が真に問いかけていることを解きほぐしていく。
1. 物語が終わった後の主人公
近年、「物語が終わった後」を描く作品が増えている。その代表例として『葬送のフリーレン』が挙げられる。従来の物語では、クライマックスを迎えた後にエンディングが訪れ、そこで主人公の役割は終わるが、『超主人公』は「終わったはずの物語が続いてしまう」という状況を描いているという点に注目したい。
この背景には、RPG的な成長物語とその終焉の問題があるだろう。『超主人公』がゲームの世界の住人だとして、例えば1986年に発売された『ドラゴンクエスト』をはじめとするRPGは、成長を軸とした物語を展開する。好景気、バブル経済に後押しされた世情では、この「レベルを上げて成長する」という物語が、リアリティをもって受け止められた。
しかし90年代から00年代は『ヱヴァンゲリヲン』に代表されるような「世界の終わり」を描く作品が量産された。10年代では『魔法少女まどかマギカ』や『がっこうぐらし!』のように「世界は実は終わっている。そこに救済はない」という世界観の作品が生み出されていく。
このような系列からみれば『超主人公』は、先程挙げた『葬送のフリーレン』のように「終わったあとの世界」あるいは「物語が終わったあとの世界」という風なテーマの変遷の先に位置づけられることは明らかだろう。
しかし、成長の果てに待っているものが必ずしも幸福とは限らない。むしろ、成長しきった後に待ち受けるのは「戦う理由の喪失」や「目的を失った日常」である。
それは、2010年代においてリーマンショックや東日本大震災を経て「もう何かが失われていた」という感覚を受け、2020年代は、パンデミックや経済停滞の影響で「何かが終わったそのうち、どう生きるか?」と問われている現代の主題とリンクする。宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』が公開されたことは、これらの象徴といえるだろう。そして『超主人公』に込められているメッセージも、まさにそれなのだ。
2. 「主人公 or DIE」という二者択一
『超主人公』の特徴であり、最も残酷な点は、「主人公であること」を降りる選択肢が事実上存在しないことである。この曲は「主人公 or DIE」と問い続けられていることから、「主人公」であり続けなければならず、それを放棄すれば「死」が待っている。
だが、「気づけばあんた/ラスボスじゃないかい?」とあるように、主人公として生き続けることもまた、新たな「主人公」のラスボスになるという構造になっている。主人公はいつのまにか「明るい未来のため犠牲は仕方ない」というような「狂気」を孕んでいく。「ラスボス」はその狂気の終着点だ。
ところで、この状況は、現代の価値観と強く結びついていると私に思えてならない。例えば、吉田夜世の『オーバーライド』にも「限界まであがいた人生は想像以上に狂っているらしい」という歌詞がある。
ここで『超主人公』の歌詞に再び目を戻してみれば、「IQ・フィジカル・人脈・ルックス」と並べられた言葉から「主人公」という言葉が「自己実現」という意味を内包していると考えられないだろうか。実際に『超主人公』は「聞いてもない成功譚語って」とあるように、「主人公」は「成功者」であり「上目指しすぎて」という点から「自己実現し続けた人物」と言う風に想像ができる。
そして、現代において「主人公であること」、「人生を全力で全うし続けること」、言い換えれば自己を実現し続けることは狂気となる。『超主人公』は、そんな狂気じみた現代社会のプレッシャーを的確に表している。
3. 「主人公を降りる選択肢」が排除される理由
では、なぜ「主人公を降りる」という選択肢が「死」によって実質的に許されないものとなっているのか。これについては、「降りる選択肢」が最初からノイズとして排除されている可能性もあることを指摘しておかなければならない。
新書大賞を受賞した『働いているとなぜ本が読めなくなるのか』では、自己啓発的な世界観は、労働市場において「非効率」とされるものが排除されていると指摘している。これを転じると、「主人公(=自己実現)を降りる」という選択肢は社会的に無価値と見なされるため、選択肢として認識されにくいということになる。
さらに、『客観性の落とし穴』では、現代社会が数値化可能なものを重視する傾向にあると述べられている。これに従えば、例えば、労働の世界において「生産性」という尺度は、今多くの人に強いられているものではないだろうか。労働市場における「自己実現」や「成功」は「生産性」という尺度と密接に結びついており、さらに「降りる」という選択は「ノイズ」として排除される。非効率だからだ。このような評価体系では、「主人公を降りる」という選択肢が成立しにくいのも当然である。
終わらない物語への問い
これらのことから『超主人公』は、単なるRPG的な成長の終焉を描くだけではなく、「成長し終えた後に生きることの困難さ」を突きつける楽曲だといえる。物語が終わっても終われないという状況は、現実社会においても同様であり、自己を実現し続けることが一種の強迫観念になっている。
この曲が示唆するものは、単なる虚無ではなく、新たな価値観の模索かもしれない。物語の続きがあるのならば、それをどのように生きるべきか。その答えは、聞き手の解釈に委ねられている。