【歌詞考察】DECO*27『テレパシ』コンテンツ化するミームまみれの恋はなぜ悲恋になるのか

【歌詞考察】DECO*27『テレパシ』

コンテンツ化するミームまみれの恋はなぜ悲恋になるのか

ボカロ曲『テレパシ』は、大量のパロディ、ネットミームで構成されたMVを背景にしつつ、自身の恋愛感情を歌っている人気の楽曲だ。ネット上の考察は、このミームの元ネタ探しに奔走しているようだが、重大な点が三つ見過ごされている

一つは『テレパシ』というタイトルの謎。二つ目が、なぜこの曲のMVがネットミームで構成されているのか。最後は、この曲の歌詞が「片思い」の心情を歌っているのか、という点だ。考察を見渡した限りでは、これらを関連付けているものは皆無と言っていい。

本論では、歌詞の意味を踏まえつつ、これらを結び付ける。本曲が片思いの曲であることには理由があるのだ。さっそくみていこう。

『テレパシ』のタイトルが示唆するもの

まずタイトルの謎。言うまでもないかもしれないが『テレパシ』というタイトルは、「テレパシー(telepathy)」の略語だ。言葉で伝えなくても「わかる人にはわかる」という風に解釈してもいい。なぜならMVを構成している大量のネットミームが、まさに「わかる人にはわかる」事象の最たる例だからだ。そして、このような背景を持ちつつ、歌詞では恋心を歌っている。

ところで一般に恋愛というものは、「自己変革」というものと不可分だった。好きな相手に振り向いてもらうために努力する、成長する、変わるというのが恋愛につきものだったはずだ。

しかし、ネットミームを盛り込んだ『テレパシ』に反映された恋愛観は、いうなれば「同じ文化圏」にいることを相手に求めている。換言すれば、自己変革の道を閉ざしているのだ。なるほど、たしかにマッチングアプリでも「共通の趣味・価値観」が重要視されるし、リアルの恋愛でも「同じジャンルのオタク」みたいな共通点が親密さを生むことが多い。「恋愛=自己変化」ではなく「恋愛=共通文化圏に居る」。『テレパシ』というタイトル、そしてミームで埋め尽くされた背景に、恋心を歌っているのは、このような恋愛観がある。

「履修」される恋——推し×ファン構造の恋愛

さて、ここからが面白い。

『テレパシ』のなかで、歌い手の「あたし」は冷遇されている。「気づいてよ」「履修してよ」「返答をください」。挙句の果てには「脈ナシハラスメント」や「あいうぉんちゅーコール伝わんない」とある。伝わってないし、ほどんと「脈ナシ」のだ。「片思い」を超えて、ほぼ「悲恋」である。なぜ、このような結末なのか。

答えは、「自己のコンテンツ化」という言葉に集約することができる。つまり、「推し」とその「ファン」というインターネット的・オタク的関係構造を、自身の恋愛に当てはめてしまっているのだ。

例えば「履修してよあたしのこと」という歌詞がある。この表現は、相手に「理解してもらう」よりも「私という存在を知識として学ぶべきだ」と一方的に要求している。これは、恋愛において従来、重要視されていた「お互いを知る」という双方向的なプロセスを放棄し、相手に自分を「履修させる」ことが求められる構造を意味しているのではないだろうか。歌詞のなかに、恋をした相手がどのような人なのか、という情報は出てこない

さらにもう一つ。会話と思わしきコミュニケーションを「ライブ」と表現する一節がある。ライブとは、本来「生で行われるパフォーマンス」だが、ネット文化においては「配信」「実況」という意味もある。普通の恋愛における会話は「双方向のコミュニケーション」だ。しかし、「ライブ」という言葉を使うことで、「一方的な発信」に変わってしまっている。確かに、ストリーミングでは、視聴者もコメントによってコミュニケーションを図ることができる。しかし、コメントのほとんどはストリーマーに無視される。あくまで主催はストリーマー、視聴者はそれを受け取るという立場。双方向とは言いにくいというのは強調するまでもないだろう。

恋愛は「消費」されるものへ——『テレパシ』が示す未来

だからこそ、この曲には最後「この作品はご覧のスポンサーの提供でお送りしました」という風に歌われる。あくまで一方的な「ライブ」であり、「あたし」は「コンテンツ」なのだ。

『テレパシ』における恋愛は、まるで「推し×ファン」の関係に似ている。語り手は、自分を「推し」として相手に提供し、相手はその「推し」を「履修」し、愛でる立場にある。この関係性は、従来の恋愛観、つまり「お互いの関係を築く」という双方向性を前提とするものではなく、むしろ相手に自分を消費させることが前提となっている。

そして、このような関係は、相手が自分を理解するのではなく、相手が自分の「コンテンツ」をどれだけ消費してくれるかが重要視されるようになっている。これにより、恋愛は「消費される対象」となり、関係は一方通行になってしまう。

恋愛は「ライブ」によって「フォロワーを増やす」こととは違う。相手が「履修する」ことを前提にした恋愛(翻せば、自分が相手を「履修しない」もしくは自己変容を放棄した状態)は、相手がそれを拒否することだって当然ありうる。そして、そのような拒否が発動した瞬間、もう関係が成立しなくなってしまう。かのような自意識では「追うこと」=「自己変革」の選択がないからだ。インターネット的・オタク的関係性も持ち込んでしまったこの恋は悲恋に収束するほかない。

まとめ

『テレパシ』は、現代の恋愛観がどのように変容してきたのかを反映した作品であり、特に自己のコンテンツ化と恋愛の発信型化という新しい価値観が浮き彫りになっている。語り手は、恋愛における「履修」や「ライブ」など、まるで自分をコンテンツとして消費してもらうことを前提にしている。これにより、恋愛はもはや「相手と関係を築くもの」ではなく、「自分のコンテンツを受け取ってもらうこと」が重要視される時代になったことがわかる

現代の恋愛は、双方向的なコミュニケーションが欠け、相手に自分を「履修」させることを期待する一方通行の構造が強調されている。この新しい恋愛像が、今後どのように進化していくのか、さらに考察を深める必要があるだろう。